「ゴルバチョフって奴は分かりにくい男だよ」──「敗軍の将」の遺産とは?
Gorbachev's Disputed Legacy
彼の貧しい生い立ちでは帝王学とは縁がなく、巨大な帝国を統治し改革する遠大な事業に取り組む準備はほとんどできていなかった。北カフカスの寒村出身の農民である彼は、主に農業事業を手掛けて共産党内で頭角を現した。そんな折、旧ソ連の情報機関KGBのトップだったユーリー・アンドロポフとたまたま知り合い、目をかけてもらえるようになった。
ソ連の最高指導者である共産党書記長の座に就いたアンドロポフはゴルバチョフを後継者にするつもりだった。だがゴルバチョフが外交や国防、経済や財政を学ぶ前にアンドロポフは死去。知識と経験に欠ける彼に代わって、コンスタンチン・チェルネンコが書記長に就任した。だがそのチェルネンコも13カ月後に死去し、準備不足のゴルバチョフが重責を担うことになる。
1985年3月、共産党政治局が形式的な投票でゴルバチョフを書記長の座に据える前夜、彼は妻ライサと散歩に出た。
「本当にやるつもりなの」。ライサが詰め寄ると、彼はしっかりとうなずいたと伝記作家は伝える。悪化する一方のソ連経済、腐り切った統治システム。「こんな状態を放置するわけにはいかないんだ」と断言した、と。
「核カード」に頼らず
ゴルバチョフは共産主義の理念とソ連の現実のギャップに気付いていたが、当初は荒療治をせずとも漸進的な改善で埋められると思っていた。それについて彼は後年、こう弁明している。
「長年目隠しされ鎖でつながれていたら、マインドコントロールは簡単には解けないからね」
理想主義とあふれる熱意で職務に取りかかったゴルバチョフは、就任4年目に大胆な経済・政治改革と憲法改正を打ち出した。
だが任期の最後の2年間には大胆な改革と大幅な後退の間を行きつ戻りつしているようだった。いや、ただ優柔不断になっていただけかもしれない。本人に言わせると、あまりに急速に改革を進めると内戦が起きる恐れがあり、慎重にならざるを得なかったというが......。
共産党の怪物じみた政治機構の中にあって彼ほど功なり名を遂げた人物が人間らしい感性を保っていたことに首をかしげる歴史家もいる。
ゴルバチョフは若き日に好んで詩を読み、芸術全般に憧れを抱いていた。お気に入りのラテン語の格言はドゥム・スピーロー・スペーロー(私は生きている限り、希望を抱く)だ。
ロシア人の例に漏れず、口汚い罵り言葉をよく使うが、酒に溺れることはなく、家族を愛する良き夫、良き父だった。休暇先にはいつも文学、哲学、歴史の本を何冊も携えて行き、辛辣なジョークを飛ばし、よく笑った。