残虐行為を目撃し、飢餓と恐怖に耐えた子供の心と体に「戦争後」に起きること
THE CHILDREN OF WAR
2日後、それまでは遠くで響いていた爆発音が明らかに大きくなった。別荘はロシア軍とウクライナ軍の陣地に挟まれた空白地帯にある。程なく電気が止まり、携帯電話が通じなくなり、外界との通信が完全に断たれた。
戦闘がやんで、辺りが静かになったときには、ソフィアは祖母に注意深く見守られて外で遊ぶか、お下がりの衣装でキャラクターに扮して遊んでいた。夜になると、一家は暗闇で身を寄せ合うようにして横になったが、近くで絶えず爆音がとどろき、ろくに眠れなかった。そのうち食料が底を突き始めた。
そして、ミチャエワ一家は決めた。車に荷物を積み込み、白い旗と「CHILDREN(子供)」と書いた紙を貼った。
その頃にはユリアは体重が5キロ近く減っていた。ソフィアは食事は十分に取れていたが、いつでもどこでも踊っていた活発な子がおとなしくなっていた。もう何週間も踊っていない。泣いてばかりいる娘がユリアは心配だった。
路肩に止まっていた車を通り過ぎると、前方に別の車が止まっていた。道路の真ん中で隣人が必死に手を振っていた。すぐ先でロシア軍が彼らの車に発砲してきたのだ。
ユリアはソフィアを自分の膝に乗せた。8歳と13歳の兄弟が乗ってきた。血まみれで手に包帯を巻いていた。弟は黙り込んでいた。兄は「かすり傷だよ」と言ってソフィアをなだめようとした。
近くの臨時病院で隣人家族を降ろし、ユリアたちはいったん別荘に戻った。
程なくして、ラジオを聞いていた父親のサーシャは、「人道回廊」の交渉がまとまって安全な避難経路が確保されたことを知った。危険ではあるが、選択の余地はなさそうだった。
げっそりと痩せ、汚れ、疲労困憊していた
一家は再び出発し、車15台の列に加わり、さらに100台ほどの大きな隊列に合流した。サーシャはロシア兵の姿を見て、ロシア側の検問所を通過しているのだと悟った。
彼らは奇跡的に街を出ることができた。ウクライナ西部にたどり着いた一家の姿に、友人たちは驚いた。げっそりと痩せ、汚れていて、疲労困憊していた。
ソフィアは、どうしてこんなにたくさん兵士がいるのか、どうしてロシアが攻めてきたのか、どうして彼らは人を殺そうとするのかと、繰り返し尋ねた。このときはまだ、知りたがっていたのだ。
20世紀の戦争から学んだ重要な教訓の1つは、時間は敵であるということだ。第2次大戦までさかのぼった多くの研究によると、戦闘地域に2、3週間いただけで、子供の人生の軌跡は恒久的に、取り返しのつかないほど大きく変わり得る。
だからこそユニセフのような組織は、できるだけ多くの子供を危険から遠ざけることを第一の目標としている。