残虐行為を目撃し、飢餓と恐怖に耐えた子供の心と体に「戦争後」に起きること
THE CHILDREN OF WAR
これほど多くの子供をどう救うのか。そこは援助機関の出番だと言いたいところだ。近年の活動を通じて援助機関は紛争の影響から子供たちを守るスキルを蓄積している。ただ、その一方で活動の限界を露呈してきたことも否めない。
ウクライナ危機は、国連によれば「最も迅速かつ寛大に」難民支援の寄付が集まった危機でもある。シリアやアフガニスタン、南スーダン、あるいはミャンマーのロヒンギャ支援に比べ、ざっと7、8倍という未曽有の寄付金が集まった。
こうした資金を活用して、援助ワーカーや児童保護の専門家ら専門的なスキルを持つ多数の人材がソフィアのような子供たちに支援の手を差し伸べる。
ウクライナ危機は、たまたまパンデミック対策としてオンライン授業の導入が進んでいた時期に起きたという意味でも、これまでの危機とは条件が違う。
とはいえ絶えず移り変わる前線の向こうに大勢の子供たちが足止めされている状況では、支援しようにも子供たちに近づけないジレンマがある。たとえ資金が潤沢にあっても、紛争中の支援は一筋縄ではいかない。
「子供の心のケアについては経験やスキルが蓄積されているが、問題は支援が必要な子供たちにどうアクセスするかだ」と、ユニセフのセーラ・ボーダス・エディーは話す。
母親の手を握りしめ、そばを離れなかった
2月24日木曜未明、ソフィアは母親のユリアとマンションの16階で寝ていて、雷にしては異常に大きな音に驚き目を覚ました。窓から外の様子をうかがったユリアは爆撃が始まったことを知った。ウクライナ侵攻を開始したロシア軍はまず首都キーウ(キエフ)に狙いを定めたのだ。
その日の夜は空襲警報がひっきりなしに鳴った。一家はほかの3家族と共に近くの建物の地下に避難した。マンションは軍事基地の近くにある。ソフィアは怯えて、母親の手をしっかりつかんでそばを離れなかった。
翌日、親子3人とユリアの両親、それに猫のガーフィールドも一緒に車に乗り込み首都から逃れた。途中、キャリーバッグに荷物を詰めて徒歩で逃げる人たちの長い列や、車のルーフに家具やかばんをくくり付けて逃れる人たちを見掛けた。
ミチャエワ一家は車を1時間ほどほど走らせて、キーウの東約65キロの所にある別荘に到着。近くの村で2週間分の食料を買い込み、テレビのニュースを見ながらこれからどうするか話し合った。別荘はドニプロ(ドニエプル)川の支流の近く、ブチャという村のそばに位置していた。
「その時はとりあえずここなら安全だと思っていた」と、ユリアは話す。「2、3日様子を見て、どうするか決めようということになった」