「島唄」が僕の人生を導いてくれた──宮沢和史(元THE BOOM)が語る沖縄と音楽
FOR FUTURE GENERATIONS
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「島唄」をリリースした当時、沖縄と本土の間にはまだ見えない壁があった MORIAKI KISE
<凄惨な地上戦があったこの島でなぜこれほど美しい芸能を磨けるのか、その問いを一生かけても解明したい>
本土復帰50年を沖縄の人たちがどう受け止めているか――その答えはその人の立場、考え方によって違うだろう。対談集『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)のために、年齢も生い立ちもさまざまな10人にインタビューしたが、そこで思ったのは皆さんがそれぞれ「ウチナーンチュ(沖縄の人)」とは何か、沖縄とは何か、という命題を抱え、それが仕事や活動の原動力になっていること。
沖縄でも、世代によって育った環境が違うし、アイデンティティーも違う。復帰50周年の記念式典には僕も参加したが、会場の外の抗議デモが聞こえ、反発があることも実感した。それでも、沖縄と本土の橋渡し的な役割をしたいと考えている僕が、レセプションで歌うことができたのはよかったと思っている。
僕は沖縄に来てから沖縄の音楽が好きになったのではなく、そもそも沖縄民謡を好きになって、この音楽をひもといてみたいと沖縄に通うようになった。今でも、その想いは変わらない。これから50年後、100年後も沖縄民謡や古典音楽、組踊(伝統的な歌舞劇)、エイサーといった伝統芸能が発展していってほしいと願って活動している。
「島唄」ヒットで三線の材料が枯渇
三線(さんしん)の材料である琉球黒檀(こくたん)という木は、現在沖縄では枯渇して輸入に頼っている。あるとき三線を作る職人さんから「『島唄』のヒット後の三線ブームで材料が足りなくなって輸入が始まった」と言われ、いい素材がしかるべき人に渡らなくなったのなら植えなくてはいけないと思い、2012年から琉球黒檀を植樹するプロジェクトを始めた。成長するまでには100年を超える時間がかかるが、将来的には植えた木が三線になってほしいという願いを込めて。
また245曲の沖縄民謡を収録したアーカイブ集を作成し、県内の学校や図書館に寄付した。これも将来、子供たちが民謡を習う時のために、楽譜に残せない部分を音声に記録しておこうという思いから。
「島唄」を作ったきっかけは、既にTHE BOOMとしてデビューしていた20代半ばに初めて沖縄を訪れ、そこで沖縄戦の真実を知ったこと。ひめゆり平和祈念資料館の資料などに触れ、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦のことを何も知らない自分がとても恥ずかしかった。
もちろん戦没者は沖縄だけではないが、沖縄戦の戦没者20万柱の上に日本の復興があったと考えざるを得ないし、それがあって日本は短期間にこれほどの先進国になったという事実をもっと本土の人も知らなくてはならない。プロのミュージシャンとして、そのことを歌にして本土の人たちに伝えたかった。とはいえ、ロックバンドが三線を持って歌うのは当時、前例がなかったし、「島唄」は92年にリリースしたアルバムの中の1曲でしかなかった。