「島唄」が僕の人生を導いてくれた──宮沢和史(元THE BOOM)が語る沖縄と音楽
FOR FUTURE GENERATIONS
「ダブルミーニング」に込めた思い
ところがシングルカットすると、「島唄」は予想を超えるヒットになった。沖縄のほとんどの人は「ありがとう」と言ってくれたが、ヒットの大きさに比例して沖縄の音楽界などからの批判の声も耳に入ってきた。本土の人間が三線を持つこと、琉球音階を使うこと......。当時は沖縄と本土の間には見えない壁があって、それを越えられるミュージシャンはほとんどいなかった。
「島唄」は沖縄戦の犠牲になった人たちへの鎮魂の歌だが、当時はバブルの頃で、沖縄戦をそのまま歌詞にしても耳を傾ける人はいないだろうと、表向きは男女の出会いと別れの歌にして、一行一行に全く違う意味を込めた「ダブルミーニング」にした。批判されるような、沖縄の上っ面を借りただけの歌ではないことは、歌い続けていれば理解してもらえるだろう――当時そう決意したが、沖縄の音楽界、民謡界の方々と楽しく付き合えるようになったと実感したのは、20年くらいたってから。
沖縄民謡には「工工四(くんくんしー)」という独特の楽譜集がある。これは星の数ほどある沖縄民謡を楽譜化したもので、スタンダードが採録されている。その第11巻の1曲目に「島唄」が載っているのを見たとき、沖縄民謡の片隅に「島唄」を置いてくれたことが、何よりもうれしかった。
ポーランドで歌った「島唄」
沖縄からの移民が多いブラジルをはじめ、中南米、そしてポーランド、ブルガリア、ロシアなど世界各地をライブで回った。どこの国でも「島唄」を歌うときには現地の言葉で、「日本の南の島で地上戦があって20万人が亡くなった。二度と戦争がないように歌います」と説明する。
いまウクライナから多くの人が避難しているポーランドを訪れたとき、移動の合間にアウシュビッツ収容所の博物館を見に行った。そこで知ったホロコーストの真実に、沖縄戦と同じくらいの衝撃を受けた。ポーランドの次のライブでいつものように「島唄」の説明をして歌ったら、ものすごい拍手があって、現地の人たちが自分の国の悲しみを重ねているんだなと。ロシアでもライブをやったが、みんないい人たちで......だから今、ウクライナで起きていることが信じられない。
最初の頃は、自分が「島唄」を届けに行っていると思っていた。でもそうじゃなくて、「島唄」が僕を世界のいろいろなところに連れて行ってくれていると思うようになった。ロシアやポーランドを見せて、「そこで見たものを違う形でほかの人に伝えろ」ということなのだと。