1500人の女性を囲い17人に子ども54人を産ませた「好色将軍」徳川家斉が実子を増やし続けた理由とは
手当たり次第に手を付ける女癖のひどさ
とにかく家斉の女癖はひどかった。手当たり次第に手を付けていった。もちろん大奥は、将軍の子孫を残すための場であるものの、彼には節操がなかった。
その精力は、驚異というほかはない。なんと16人の側室(異説あり)をもち、17人の女性から男27、女27、あわせて54人の子供を産ませているのである。もちろん当時のことだから、そのうち半数近くが早世してはいるものの、それでも男13、女12が成人している。
15歳で将軍職に就いた家斉は、17歳のとき、薩摩の島津重豪の娘・寔子(ただこ)を正室に迎えるが、ほぼ同時期、すでに年上のお万という女に手を出し、子を産ませている。
長女の淑姫である。
「薩摩いも、ふける間を待ち兼ねて、おまん(饅頭)食うて、腹がぼてれん」
この事実を落首にして、庶民は囃したてた。
以後、文政10年(1827)に55歳になるまでの約40年間、家斉は子づくりに励み続けた。気に入った女性には、ことごとく手を付けたと伝えられ、文化10年(1813)には、年間4人の子供をもうけている。
そのため、家斉の時代は大奥の全盛期となり、女性の数は1500人を超えたという。
諸藩に子供を送り込んだ家斉の野望
それにしても、家斉の子供の数は異常である。単に好色だったということだけでは、説明がつかない気がする。
あくまで推測だが、次々と子供ができていくうち、家斉のなかにある野望が芽生えたのではないだろうか。その野望とは、他家乗っ取りである。
江戸時代、大名家はおよそ270あったというが、なんと家斉は、御三家をはじめとして、会津、加賀、福井、安芸、仙台、佐賀といった雄藩に、合計27人の我が子を養子や嫁として送りこんでいる。その数は、全大名家の10分の1に匹敵する。驚くべき数字である。
家斉は、大藩のすべてを自分の血筋の者に継がせ、将軍家の縁戚にすることによって、将軍独裁を狙ったのだと思う。
続々と誕生する子供たちを、新たに大名に取り立てることは財政上困難、それを表向きの理由に、家斉は諸大名家に次々と我が分身を送り込んでいった。