空手がアラブで200万人に広まったのは、呑んだくれ日本人がシリア警察をボコボコにしたから
「よし、俺の腕はしっかりしている」
と岡本は高笑いする。これで気が晴れた。いよいよ帰国である。
来るなら来い。やってやろうじゃないか
岡本が宿舎に引き上げようとすると騒ぎを知った警察官3人が駆け寄ってきた。
「シーニー(中国人)か」と警察官が聞く。
「何だと。俺はヤバーニ(日本人)だ」
誇れることなど何一つしていない岡本が、なぜか胸を張って主張する。酔っているこの男を警官が取り押さえようとしたそのときだった。岡本の回し蹴りがパン、パン、パンと音でも鳴らすように3人のあごに入った。3人はそのまま倒れた。
「うん、貞森君、俺も捨てたもんじゃない」
「岡本さん、これは来ますよ。機動隊が」
岡本はいまさら逃げる気はなかった。強制送還してもらった方がいいと思っている。
「機動隊でも何でも、来るなら来い。やってやろうじゃないか」
岡本はまた下駄を鳴らしながら歌う。「蒙古放浪歌」である。
人と生まれて
情はあれど
母を見捨てて
波こえてゆく
岡本の大きな声をかき消すようにサイレン音が近づいてきた。
「おう、来たな」
岡本がサイレンの鳴る方を見るとトラックだった。
「これは大分、大勢で来たな」
銃を持った機動隊相手に素手で殴る、蹴る
岡本の横でトラックが止まる。荷台からぞろぞろ機動隊員が降りてきた。みんなカラシニコフ銃を抱えている。身体の大きな若者ばかりである。十数人はいるだろう。機動隊員が取り囲むようにして岡本を押さえにきた。
そのときだった。岡本の突き、蹴りが次々と隊員に入る。何人かは完全に倒れている。それでも向こうは多数である。岡本も殴られ、蹴られる。そして、このあたりから岡本の記憶は飛んでいる。気づいたら警察学校の将校宿舎で横になっていた。
翌朝、岡本は大使館からの連絡で目を覚ました。大使がかんかんになって怒っているという。
後からシリア国家警察幹部に聞かされた話では、岡本は機動隊十数人を相手に大立ち回りを演じ、隊員たちを次々と殴る、蹴る、そして、殴られ、捕まりそうになると道路端の木に登って、上から飛び蹴りを食らわした。押さえ込まれるとかみつき、急所に蹴りも入れたという。カラシニコフの銃口を向けられてもひるむことなく暴れ回った。機動隊側としても、単身素手で暴れる日本人相手に多勢の側から銃を使うわけにはいかないと判断している。
日本大使館にとっては大問題
1時間近くの乱闘の末、岡本は身柄を拘束され、いったんは近くの警察署に連行され留置場に入れられそうになりながら、ことを穏便に済まそうと考えた警察学校長の指示で宿舎に戻されたらしい。
日本大使館にとっては失態、大問題である。派遣した指導員が大げんかをした末、現地の警官を負傷させた。警官3人のほか機動隊員数人も病院で手当てを受けたらしい。本来なら逮捕されても仕方なかった。
事情を知った大使は岡本を帰国させることを決めた。シリア政府への謝罪の意を示すためにも、岡本に責任を取らせる必要があった。任期途中の帰国になるが、岡本はもとより覚悟していたことである。ただ、くだんの外交官を殴れなかったことが心残りだった。