なぜ中台の緊張はここまで強まったのか? 台湾情勢を歴史で読み解く
TAIWAN, WHERE HISTORY IS POLITICAL
当時、大陸では共産党との間に内戦が勃発しており、内戦勝利のため台湾内の「安定」を最優先させたいという事情も、弾圧をより苛烈なものにした。
半世紀の間に「中国」から日本へ、日本から「中国」へと、台湾の所属先の書き換えが繰り返されたことは、日本と中国という地域両大国に挟まれた台湾の運命を示している。台湾の人々は支配者の交代に合わせて「日本人」から「中国人」へ再度の属性変更を求められた。
台湾でよく聞く話では、一度も中国に行ったことがないのに、学校で北京から上海までの全ての駅名を暗記させられたという。歴史教育で扱われた台湾に関する内容は、国民党からも英雄扱いされた鄭成功ぐらいだった。
格好の「逃げ場」
歴史は、指導者の一瞬の判断が、その後の世界と人々の運命を左右することを教えてくれるものだ。
共産党との内戦で敗色濃厚となった蒋介石は、最後の拠点である四川・重慶を捨てた先の逃げ場を考えた。候補は台湾と海南島だ。当時の中国の領土では第1と第2の島である。面積はほぼ変わらないが、違いは大陸からの距離にあった。
海南島と大陸との距離はおよそ30キロ。一方、台湾海峡は狭いところでも130キロある。この差が決定的な意味を持った。
海南島と同じく30キロ程度の幅のドーバー海峡を渡ったノルマンディー上陸作戦でも米英軍はあれほど苦労したのに、130キロを超える台湾海峡の上陸作戦にはどれだけの準備と大部隊が必要となるのか。まず電撃作戦は無理であり、しかも西側のほとんどが浅瀬で大型船が接岸できない台湾の揚陸点は、北部と南部の一部海岸に限られる。海と陸から迎え撃たれれば、10倍の兵力でも足りない。
台湾は逃げ込む先としては絶好の地だった。もし海南島に逃げていたら、あっという間に共産党に制圧されただろう。
その点からいえば、台湾を逃げ場に選んだ蒋介石は慧眼だった。
蒋介石には神風も吹いた。1950年に起きた朝鮮戦争である。想定外の事態に慌てたアメリカは、台湾を反共のとりでとすることを決定。台湾に逃げ込んだ中華民国は、日本と共に戦後の冷戦構造におけるアメリカ側の体系に組み込まれ、当面の安全を確保することができた。
不可侵ライン「中間線」
その中台分断を象徴するのが台湾海峡中間線である。米国の介入を受けても毛沢東は統一を諦めず、台湾が支配する金門・馬祖島へのミサイル攻撃を繰り返し、1958年には米空母が台湾海峡に6隻も集結する事態となった。中間線はこの1950年代、米国側が台湾海峡に設けたもので、事実上の中台相互不可侵ラインの役割を果たした。