最新記事

映画

認知症の混乱と悲哀を「体感」した先に待つ感動...映画『ファーザー』の凄み

A Dementia Movie Unlike Any Other

2021年5月15日(土)14時09分
デーナ・スティーブンズ(映画評論家)

210518p56_fa01.jpg

©NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020

ゼレールはほかにもあの手この手でアンソニーの混乱を表現する。彼が暮らすアパートの間取りや装飾も微妙に変わり続け、観客は彼が過去に訪れた場所や住んでいた場所と混同しているのだと気付く。

暖炉の上に飾っていたはずの絵が突然消え、絵などなかったと言われる(絵を描いたのはアンの妹で、常に自分の「一番のお気に入りの娘だった」とアンソニーはアンの前で言い放つ)。アパートの部屋になかったはずの家具がある。会話も堂々巡りで、同じ言葉を別の人物が口にしたり、同じ場面で2度繰り返されたりするように思える。

このわずかだが絶え間ない混乱のプロセスが淡々と伝えられる。凝ったカメラワークも幻覚のようなモンタージュも悲痛なクローズアップもない。誰が、何が待ち受けているかと、毎朝恐る恐る寝室のドアを開けるアンソニーに、観客を感情移入させる趣向だ。

壊れていく側の視点から

作品のトーンは冷淡とまでは言わない。壊れた家族が正しい選択をしようと苦悩する姿を老いた親の視点で描く本作は、十分思いやりがあり、特に終盤は非常に感動的だ。

それでも、作品にもアンソニーにも、昔ながらの心温まるものは皆無だ。前半でアンソニーは娘による夫(らしき男)に対する不実(らしきもの)を暴いて喜ぶ。その後、介護人(イモージェン・プーツ)に愛嬌を振りまき、彼女にウイスキーを注いで即興のタップダンスを踊りだすが、相手が好意を抱きかけた途端、彼女を攻撃し侮辱する。

アンソニーはリア王のように、献身的な娘を疑い、悪巧みをしていると非難する。アンに心から感謝したかと思えば、次の瞬間にはまたつまらないことでけんかを吹っ掛け、娘の思いを踏みにじる。

終盤はペースを落とし(たびたび時間が飛ぶので97分という上映時間も長くは感じない)、次第に区別がつかなくなっていく母親・娘・介護人をコールマンとウィリアムズが演じる。ホプキンスは見たことがないほど役(彼に当て書きされた同名・同誕生日の人物)に入り込んでいる。

この伝説的俳優が演じた役で最も印象深いのは『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターや『日の名残り』の執事など、頭脳明晰で洗練された人物だ。

アンソニーも最初はクラシック音楽を聞きながら分厚い学術書を読み、教養があってブルジョア的な生活を楽しんでいる。だが急速に自分らしさが失われていくのに気付き、しまいには自分がどこにいるのか、誰と一緒にいるのか、次に何が起きるのかを理解するのに必死になる。

ホプキンスはこの役で、米アカデミー賞主演男優賞を受賞。現在83歳の彼が、人は皆滅びゆく運命にあるという悲惨な現実に厳粛さと好奇心と弱さを持って向き合う役に挑んだというだけでも、見るに値する作品だ。そして、才能あふれる映画監督の誕生を目撃できるという意味でも。

©2021 The Slate Group

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必死すぎる」「迷走中」
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 6
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 7
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 8
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 9
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中