最新記事

映画

認知症の混乱と悲哀を「体感」した先に待つ感動...映画『ファーザー』の凄み

A Dementia Movie Unlike Any Other

2021年5月15日(土)14時09分
デーナ・スティーブンズ(映画評論家)
映画『ファーザー』のワンシーン

©NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020

<認知症の時間的・空間的混乱を観客に疑似体験させながら、『ファーザー』は老いという古典的なテーマを切々と描く>

81歳の元エンジニア、アンソニー(アンソニー・ホプキンス)は、ロンドンの広々とした優雅なアパートに1人で暮らしている。毎日訪ねてくる娘のアン(オリビア・コールマン)は、ある問題を父親に優しく伝えようとする。

はつらつとして体は健康なアンソニーだが、記憶力が衰え始めているのだ。これまでに数人の介護者を、おそらく彼の想像にすぎない違反行為を理由に解雇していた。「私には誰の助けも必要ない」。人に頼ることを拒絶する姿は、認知症になりつつあるなかで最後に見せる彼らしさだ。

『ファーザー』は、フランスの劇作家フロリアン・ゼレールによる戯曲として2012年にパリで初演され、45カ国で上演されている。ブロードウェイ版でアンソニーを演じたフランク・ランジェラは、16年にトニー賞演劇主演男優賞を受賞した。

舞台での成功は、映画化に際し、閉鎖的な空間で「芝居がかった」作品づくりをしている印象を与えやすい。

しかし、監督デビュー作となったゼレールは、編集やカメラの配置、サウンドデザインなどを駆使して、主人公が経験している時間的・空間的に崩壊した世界を想起させるという、映画ならではの手法で物語を紡ぐ。

認知症を取り上げた力強い作品は数多くある。その主な共通点は、手の届かないところに行ってしまう配偶者や親を、なすすべもなく見守る側の視点に立っていることだ。

見たことのない「娘」

一方で『ファーザー』は、アンソニーの視点だけから語られる。とても頼りなくて不安定な視点だ。

キッチンでお茶を入れていたアンソニーは、自分の家で見知らぬ男性(マーク・ゲイティス)が新聞を読んでくつろいでいることに気が付く。憤慨して詰め寄るのだが、彼はアンの夫ポールで、自分がいるのは娘夫婦のアパートだと優しく説明される。

どうやら1つ前のカットから時間が経過していて、アンソニーも私たちも記憶にないまま、夫妻が彼を自分たちの家に連れてきたようだ。

ある夜、見たことのない女性(オリビア・ウィリアムズ)が玄関に立って自分はアンだと言い、混乱するアンソニーを笑い飛ばす。アンの夫を名乗る男性(ルーファス・シーウェル)は、前の「アンの夫」より冷淡な態度を見せる。

表現の手法としては、よくある仕掛けだ。同じ役や似たような役を複数の役者が演じることによって、観客は自分の目や耳をどこまで信じていいのか、警戒するようになる。

『ファーザー』で1つの役を演じる俳優が切り替わるのは、私たちが真っ白なキャンバスに、それぞれ想像するキャラクターを投影しているという意味だけではない。認知機能が低下している人にとっては、現実そのものが真っ白なキャンバスであり、毎日新しい絵を描いては消しているのだ。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

貿易分断で世界成長抑制とインフレ高進の恐れ=シュナ

ビジネス

テスラの中国生産車、3月販売は前年比11.5%減 

ビジネス

訂正(発表者側の申し出)-ユニクロ、3月国内既存店

ワールド

ロシア、石油輸出施設の操業制限 ウクライナの攻撃で
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 2
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2人無事帰還
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 5
    あまりにも似てる...『インディ・ジョーンズ』の舞台…
  • 6
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 7
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 8
    「隠れたブラックホール」を見つける新手法、天文学…
  • 9
    イラン領空近くで飛行を繰り返す米爆撃機...迫り来る…
  • 10
    【クイズ】アメリカの若者が「人生に求めるもの」ラ…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 3
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 4
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 5
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥ…
  • 6
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 7
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中