温家宝の投稿はなぜ消えたのか?
第四十六条:インターネット、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、書籍、講座、論壇(フォーラム)、報告会および座談会などの手段を通して、中央政府の重大な施政方針に関して妄言を吐き(妄信的に議論し=妄議し)、党の集中統一を破壊した者で、その情状が重大である場合は、党から除名する。
(四十六条の三には、「党や国家のイメージを毀損し、党や国家の指導者を誹謗中傷したり、党や軍の歴を歪曲した者に対しても、一定期間の保護観察あるいは党から除名する」旨のことが書いてある。)
これは反腐敗運動を断行する際に中共中央で定めたものだが、温家宝自身が2003年12月に強く主張して胡錦涛とともに制定したのだから、これに違反するということは、あってはならないことだろう。
温家宝自身が取り下げたと判断される根拠
そこで、『澳門導報』に連載した追憶記を取り下げたのは温家宝自身だろうということが推測されるのだが、その判断根拠になったプロセスをご説明したい。
第4回目の連載が4月15日に公開されると、4月16日には中国大陸内でいくつかの、あまり大きくないサイトやWeChat(ウィ・チャット)(微信)の個人サイト「温暖世界」などが転載した。しかし4月17日になると、転載を抑える動きが見られ、中には削除されるものが現れた。
これは明らかに中宣部(中共中央宣伝部)が内部で待ったをかけ、論議が生じたものと推測できる。中宣部はすぐさま中共中央紀律検査委員会にお伺いを立てただろうが、この段階になると、必ず温家宝の耳に入る。
なぜなら前国務院総理だ。素早い情報キャッチと報告は、くまなく温家宝の周りにも張り巡らされているからだ。
自分の文章に関して党内で「争議」が生じたことを知った瞬間、温家宝ならすぐさま自分の「過ち」に気づき、「自ら取り下げる」はずだ。
なぜなら、もうかなり昔の話になってしまうが、 温家宝がまだ中共中央書記処の書記をしていたころ(90年代半ば)、私は何度か彼に会っている。中央弁公庁に筑波大学時代の教え子がいた関係からだ。温家宝は素朴で威張らず、誠実な人だった。
私は1941年生まれで、彼は1942年生まれ。
中国建国後の1950年には朝鮮戦争が起きて、私は朝鮮族が多い吉林省朝鮮族自治州の延吉から天津に行き、そこで建国後の息吹を鮮烈な形で経験している。