「国民皆保険」に断固抵抗してきたアメリカ医師会のロジック
皆保険導入を阻むもう一つの障壁となったのは、戦後急成長を遂げたアメリカ経済である。ヨーロッパの復興需要から始まり、朝鮮戦争によって経済成長は定着し加速した。そして1950年代後半には「黄金の時代」と言われる経済発展を経験した。
経済成長が続いて皆保険への動きが鈍る中で、民間の医療保険が拡大した。民間保険プランは戦時中に給与外手当として認められたことで、戦後も雇用主と労働組合との交渉の材料となり雇用主提供医療保険は増加した。
アメリカ医師会は当初、公営、民営を問わず医療保険に警戒心を持っていた。何れにしても医師の独立を侵すものとして位置付けていたからである。しかし、トルーマンが皆保険の導入を推し進めた際に、アメリカ医師会は民間保険プランの拡大を積極的に支持することで対抗する戦略を採った。アメリカニズムに則って民間の力で皆保険に近づけるべきだと訴えたのである。これは、戦後の資本主義・自由主義の旗手と自認するアメリカでは歓迎された。
しかし1960年代になると医療保険改革が再び注目された。アメリカは経済学者ジョン・ガルブレイスが言う「豊かな社会」になったように表面的には見えるものの、アパラチア山脈周辺地域などでは何世代にわたって貧困状態が続いている白人の貧困層がいることが調査によって明らかにされた。
また公民権運動が勢いを増していくにしたがって、黒人の貧困問題も注目されるようになった。国際政治上でも、ソ連がプロパガンダとしてアメリカ国内の人種差別問題を使って、アフリカなどでの影響力の拡大を図ろうとしたことも、1960年代のケネディ、ジョンソン両政権が貧困問題や人種問題に対処するのを後押しした形となった。しかし社会主義国家ソ連から圧力をかけられたからこそ、アメリカは「社会主義的医療」を受け入れることはできなかった。
ジョンソンの「偉大な社会」をスローガンにした改革の中で問題となったのは、民間の医療保険が行き届かない人々である。民間保険プランの多くは雇用に紐づいていたため、退職者への対処が問題となった。また、貧困者への医療扶助も存在はしたが限定的なものに留まっていた。そこで1965年、高齢者向けにメディケアが、貧困層向けにメディケイドが成立した。
ここで重要なのは、メディケアとメディケイドという公的プログラムが成立したが、それらはアメリカの医療保険制度の根本的な変更をもたらさなかったということである。救済が必要な人々以外は依然として民間保険プランに任意加入とするということに変わりなかった。ソ連を意識しながら資本主義の魅力を高めるための継ぎ接ぎ的な改革であったと言える。1964年の選挙で、ジョンソンは地滑り的な勝利を収め、リベラル派議員が多く当選したが、皆保険を実現することはできなかった。
※第3回:医療保険は「アメリカンドリーム」の1つだった に続く
[参考文献]
山岸敬和(2014)『アメリカ医療制度の政治史――二〇世紀の経験とオバマケア』名古屋大学出版会
山岸敬和(Takakazu Yamagishi)
1972年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。慶應義塾大学法学研究科政治学専攻修士課程修了。ジョンズ・ホプキンス大学政治学部にて、Ph.D(Political Science)取得。南山大学外国語学部英米学科教授を経て、現職。専門はアメリカ政治、福祉国家論、医療政策。主な著書に"War and Health Insurance Policy in Japan and the United States: World War II to Postwar Reconstruction"(Johns Hopkins University Press)、『アメリカ医療制度の政治史──20世紀の経験とオバマケア』(名古屋大学出版会)などがある。
『アステイオン93』
特集「新しい『アメリカの世紀』?」
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