「国民皆保険」に断固抵抗してきたアメリカ医師会のロジック
この中で、アメリカ医師会は政府からの独立をある程度まで維持し、これを機に公的医療保険を導入しようとする改革派に抵抗した。連邦政府も全体主義との戦いを進める中で、戦時動員政策をアメリカ医師会の反対を押し切って強引に進めることはできなかった。皆保険導入を目指す改革派は再び敗れたが、戦後にもう一度攻勢に転じる機会が訪れた。
民間保険の拡大――共産主義の否定
総力戦では、戦争に勝利するためにより普遍主義的な社会政策が実施される。そして戦後には、多くの人が払った犠牲に報いるために福祉国家の拡大が図られることになる。イギリスでは1942年に社会保障の拡大を主張したベヴァリッジ・プランが、戦後アトリー労働党政権によって実現された。その中でも国営医療である国民保健サービスの設立は象徴的な存在であった。アメリカでも戦後同様なプログラムを実現しようとする動きが見られた。
総力戦ではアメリカの医療制度の欠陥が可視化され、特に医療アクセスを改善する必要性が認識された。特に徴兵検査で多くの若者が不合格になったことは大きな問題となった。トルーマン大統領は戦後すぐにこの問題に取り組む姿勢を明らかにした。1945年11月には、医療問題に特化した議会演説を史上初めて行なった。
しかしアメリカの戦後は、他の国の戦後とは政治状況が異なっていた。ニューディール期と第二次世界大戦期を通じて、連邦政府の経済への介入が拡大し、社会保障法など政治的に受容されたものもあった。しかし戦後の世論は「平常への復帰」を支持した。すなわち、アメリカの伝統的価値に反して連邦政府が権力を拡大した流れを巻き戻そうとする動きである。1946年に議会選挙において共和党が上下両院で多数を得たのがこれを象徴した。
出鼻を挫かれたトルーマンであったが、1948年の選挙で大方の予想を覆して勝利し、議会でも両院で民主党が多数を奪還した。攻勢に出ようとしたトルーマンの前に再び立ちはだかったのがアメリカ医師会である。ここで再び「社会主義的医療」というレトリックが繰り返された。
「社会主義的医療」という言葉は、それまでも公的医療保険に対するアメリカ市民の警戒心を煽る役割を果たしていたが、戦後はさらにその重みを増した。なぜならば、戦後まもなく社会主義国ソ連との世界的な対立構造が明らかになったからである。資本主義・自由主義陣営の盟主となったアメリカの国内では、マッカーシズムに象徴される「赤狩り」が広まり、民主党のリベラル派は標的となった。このような政治的ムードの中で、皆保険の実現を声高に叫ぶことは困難であった。