最新記事

アメリカ

「国民皆保険」に断固抵抗してきたアメリカ医師会のロジック

2021年2月10日(水)16時30分
山岸敬和(南山大学国際教養学部教授)※アステイオン93より

この中で、アメリカ医師会は政府からの独立をある程度まで維持し、これを機に公的医療保険を導入しようとする改革派に抵抗した。連邦政府も全体主義との戦いを進める中で、戦時動員政策をアメリカ医師会の反対を押し切って強引に進めることはできなかった。皆保険導入を目指す改革派は再び敗れたが、戦後にもう一度攻勢に転じる機会が訪れた。

民間保険の拡大――共産主義の否定

総力戦では、戦争に勝利するためにより普遍主義的な社会政策が実施される。そして戦後には、多くの人が払った犠牲に報いるために福祉国家の拡大が図られることになる。イギリスでは1942年に社会保障の拡大を主張したベヴァリッジ・プランが、戦後アトリー労働党政権によって実現された。その中でも国営医療である国民保健サービスの設立は象徴的な存在であった。アメリカでも戦後同様なプログラムを実現しようとする動きが見られた。

総力戦ではアメリカの医療制度の欠陥が可視化され、特に医療アクセスを改善する必要性が認識された。特に徴兵検査で多くの若者が不合格になったことは大きな問題となった。トルーマン大統領は戦後すぐにこの問題に取り組む姿勢を明らかにした。1945年11月には、医療問題に特化した議会演説を史上初めて行なった。

しかしアメリカの戦後は、他の国の戦後とは政治状況が異なっていた。ニューディール期と第二次世界大戦期を通じて、連邦政府の経済への介入が拡大し、社会保障法など政治的に受容されたものもあった。しかし戦後の世論は「平常への復帰」を支持した。すなわち、アメリカの伝統的価値に反して連邦政府が権力を拡大した流れを巻き戻そうとする動きである。1946年に議会選挙において共和党が上下両院で多数を得たのがこれを象徴した。

出鼻を挫かれたトルーマンであったが、1948年の選挙で大方の予想を覆して勝利し、議会でも両院で民主党が多数を奪還した。攻勢に出ようとしたトルーマンの前に再び立ちはだかったのがアメリカ医師会である。ここで再び「社会主義的医療」というレトリックが繰り返された。

「社会主義的医療」という言葉は、それまでも公的医療保険に対するアメリカ市民の警戒心を煽る役割を果たしていたが、戦後はさらにその重みを増した。なぜならば、戦後まもなく社会主義国ソ連との世界的な対立構造が明らかになったからである。資本主義・自由主義陣営の盟主となったアメリカの国内では、マッカーシズムに象徴される「赤狩り」が広まり、民主党のリベラル派は標的となった。このような政治的ムードの中で、皆保険の実現を声高に叫ぶことは困難であった。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

記録的豪雨のUAEドバイ、道路冠水で大渋滞 フライ

ワールド

インド下院総選挙の投票開始 モディ首相が3期目入り

ビジネス

ソニーとアポロ、米パラマウント共同買収へ協議=関係

ワールド

トルコ、経済は正しい軌道上にあり金融政策は十分機能
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    「毛むくじゃら乳首ブラ」「縫った女性器パンツ」の衝撃...米女優の過激衣装に「冗談でもあり得ない」と怒りの声

  • 3

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 4

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 5

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 6

    「イスラエルに300発撃って戦果はほぼゼロ」をイラン…

  • 7

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負け…

  • 8

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 9

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 10

    紅麴サプリ問題を「規制緩和」のせいにする大間違い.…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体は

  • 4

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 5

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 8

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 9

    帰宅した女性が目撃したのは、ヘビが「愛猫」の首を…

  • 10

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中