ロシアの脅威と北欧のチャイナ・リスク──試練の中のスウェーデン(下)
さらに問題はこれにとどまらなかった。チャイナ・リスクがより一層強く認識されるに至ったのが「桂民海事件」である(注2)。二〇一九年一一月に、スウェーデン・ペンクラブが、抑圧されている、もしくは亡命している作家に与えられるテュショルスキー賞を桂民海に授与し、アマンダ・リンド文化・民主主義・スポーツ担当大臣が代理で授賞式に出席した。このことが中国を大きく刺激し、桂従友中国大使はペンクラブがただちに授与を撤回しなければ、対抗措置を取るとの声明を発表した。また、もしリンド大臣が授賞式に参加すれば中国は今後の訪中を拒否するとし、さらに他のスウェーデン政府の代表者が臨席すれば中国人民の感情を逆なですることになり、両国の友好関係を毀損すると強弁した。
これに屈せずリンド大臣は授賞式に出席したが、これに対し傲慢な口調でスウェーデン政府および国民に「警告」を発する桂大使の言動にスウェーデンは反発し、これを中国政府による恫喝であるとみなした。ルヴェーン首相はこうした中国の恫喝には一切屈しないと語気を強めたが、桂大使は「重量級のボクサーに軽量級のボクサーが挑発してくれば、どうなるか」という比喩を用いたり、中国外交部も「中国政府と人民の感情を害すればスウェーデン人も平穏ではいられなくなるだろう」などとのメールをメディアに直接送付したりと、経済的な圧力もちらつかせながらスウェーデン政府や様々なメディアに対して干渉を続けた。
これによって、スウェーデンでも反中感情が広がることとなったが、多くのスウェーデン企業が中国とのビジネスを展開している中で、スウェーデン本国への脅威はもちろんのこと中国に滞在するスウェーデン人の安全が侵害されるおそれが、現在進行形の深刻な問題となっている。なぜ中国がこれほどまでにスウェーデンに固執するのか定かではないが、「積極的外交政策」にあるように人権を尊重する姿勢を逆手に取ることで、その脆弱性をピンポイントに狙ってシャープパワーを用いた、ヨーロッパにおける力の変更を試みているとも考えられる。
おわりに
グローバル化と人の国際的移動などによって、いま世界は激動の秩序再編の真っ只中にある。これは、国内政治においては極右の台頭によって保革の政策的距離と対立軸が従来のモデルでは収まりきれなくなり、政党配置そのものの再検討が迫られているといえる。本稿ではスウェーデンを事例に見てきたが、「新しい保守」あるいは「新しい革新」というブロック政治の終焉のような政治的対立構造の変質はスウェーデン一国に限った問題ではない。これはヨーロッパ全体にも言えることであり、ひいては日本やアメリカにおいても同様の課題が生じつつあると指摘できるであろう。
また、イデオロギー対立による体制の優位を争った米ソ冷戦が終焉したとはいえ、ロシアによる力の変更はヨーロッパを揺るがし、さらに権威主義的な大国志向を強める中国の台頭は新たな米中冷戦とまで言われる。米ソ冷戦の最前線は分断されたヨーロッパにあったが、もし中国がヨーロッパにおいてもその影響力の拡張を試みているとすれば、人権や民主主義の擁護を声高に提唱するスウェーデンを脆弱なターゲットとして見据えているのではないだろうか。スウェーデンがこうした問題群にどのように対処していくのかを見ることによって、新たな時代を乗り越え、生き抜いていくヒントが見えてくる。
[注]
(2)桂民海は香港で書店を経営する作家で、一九八〇年代にスウェーデンのユーテボリ大学で学び、天安門事件によって難民資格を与えられた。その後、一九九二年にスウェーデン国籍を取得している。現在、桂民海は中国当局に拘束され、二〇二〇年二月二四日に禁錮一〇年を言い渡されたばかりである。
※第1回:スウェーデンはユートピアなのか?──試練の中のスウェーデン(上)
※第2回:保守思想が力を増すスウェーデン──試練の中のスウェーデン(中)
清水 謙(Ken Shimizu)
1981年生まれ。大阪外国語大学外国語学部スウェーデン語専攻卒業。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(国際関係論コース)にて、修士号取得(欧州研究)。同博士課程単位取得満期退学。主な著書に『大統領制化の比較政治学』(共著、ミネルヴァ書房)、『包摂・共生の政治か、排除の政治か─移民・難民と向き合うヨーロッパ』(共著、明石書店)など。
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