地下鉄サリン直前のオウムの状況は、今の日本社会と重複する(森達也)
オウム真理教の後継団体アレフの施設の近隣には「オウム(アレフ)断固反対」ののぼりが立つ(足立区) Photograph by Hajime Kimura for Newsweek Japan
<麻原彰晃は側近たちによって危機意識をあおられ続けていた――。『A』『A2』でオウム信者たちを追った作家・映画監督の森達也が、オウム後継団体アレフの荒木浩へのインタビューも敢行し、日本社会「集団化」の意味を問う(後編)>
※前編:地下鉄サリン25年 オウムと麻原の「死」で日本は救われたか(森達也)から続く
村井が麻原にかけた電話
『A』『A2』という2本のドキュメンタリー映画を発表して以降、僕は6人のオウム死刑囚に面会し、手紙のやりとりを続けた。会った順番で書けば、岡崎一明、広瀬健一、林泰男、早川紀代秀、新實智光、中川智正だ。殺人マシンとメディアから呼称された林とは最も頻繁に面会と手紙のやりとりをした。年齢が近いこともあって、最初の面会から数カ月が過ぎる頃には、互いにため口で会話する関係になっていた。
「地下鉄サリン事件が起きる少し前、上九(一色村のサティアン)にいたとき、遠くの空にヘリコプターが見えたんだ」
一審判決後に訪ねた東京拘置所の面会室。透明なアクリル板越しに座る林泰男はそう言った。そのとき彼は施設の外にいて、すぐそばにはサリン事件から1カ月後に刺殺された村井秀夫がいたという。ヘリコプターを認めた村井は慌てて電話をかけ、「米軍のヘリがサリンをまきに来ました」と報告した。相手は麻原だ。そんな様子を眺めながら林は、「何であれが米軍のヘリと分かるんだ」と内心あきれたという。しかし目のほとんど見えない麻原は、村井の誇大な報告を否定する根拠を持てない。
そんなエピソードを話した後に、「あのとき村井にひとこと『あり得ないです』って言っていたら、その後の状況も変わっていたかなあ」と林は言った。地下鉄サリン事件を防げたかもという意味だ。でも言えなかった。この時点で村井のステージは正大師。林は師長。会社でいえば常務と課長ほどに違う。だから林は沈黙した。個ではなく組織の一員として。そして、そんな自分を悔いていた。
このとき僕は林に、仮にそのとき村井をいさめていたとしても、多くの側近がそんな状態にあったのだから、事態は変わっていないと思うよ、と言った。これに対しての林の言葉はよく覚えていない。そうかなあ、というような反応だったと思う。
目が見えない麻原は、新聞を読んだりテレビを見たりすることができない。だから側近たちが麻原に代わって情報を収集して報告する。そしてこのとき、「麻原というマーケット」に対する市場原理が発動する。つまり視聴率や部数に貢献する情報を、メディアである側近の側がフィルターにかけて選別する。視聴者や読者が最も強く反応する要素は不安や恐怖だ。
こうして麻原は、側近たちによって危機意識をあおられ続けた。遠くに見えるヘリコプターを米軍の襲撃と報告した村井にしても、嘘をついているという明確な意識はなかったはずだ。その根底にあったのは、自分たちは迫害や弾圧の被害者であるとの前提から発動する過剰なセキュリティー意識であり、麻原の意を先回りで捉える過剰な忖度だ。
事件を起こす直前のオウムのこの状況は、まさしくメディアと政府から危機意識をあおられ続ける今の日本社会と重複する。