スーチーはハーグでロヒンギャ虐殺を否定し、ノーベル平和賞を裏切った
Suu Kyi Travels to The Hague to Deny Genocide
法廷で軍部の残虐行為を擁護するスーチー(12月11日、国際司法裁判所で) Yves Herman-REUTERS
<ハーグの法廷に出廷し、軍部によるジェノサイドを否定>
ノーベル平和賞は、受賞後の行いを保証しない。
今年この権威ある賞を授与されたのはエチオピアの若き「改革派」指導者アビー・アフメド首相だ。国内では今も民族対立が続き、民主化の実現には程遠い状況で、受賞は時期尚早との批判が渦巻く。それでもアビーは12月10日、ノルウェーの首都オスロで行われた授賞式に臨み、晴れがましい表情で栄誉を受けた。
ノルウェー・ノーベル委員会に平和への貢献を認められ、栄誉を与えられたからといって、政治指導者が強権支配やシニシズムに走らないとは限らない。それを見事に示したのは、1991年にこの賞を受けたミャンマーの事実上の指導者アウンサンスーチーの行動だ。彼女もまた今週ヨーロッパに飛んだ。ジェノサイド(集団虐殺)の罪で提訴された自国政府の代表としてオランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)に出廷するためだ。
ミャンマーの民主化運動の旗手で、長年自宅軟禁されていたスーチーは、1990年代には人権と民主主義のシンボルとして国際社会に高く評価されていた。だが近年の行動は彼女を支持し尊敬していた人たちを驚かせている。イスラム教徒の少数民族ロヒンギャを1万人以上殺害し、数十万人を国外逃亡に追いやったジェノサイドは、ミャンマー軍指導部が主導した組織的犯罪であることを示す圧倒的な証拠がある。それにもかかわらずスーチーは、かつて自身の敵だった軍指導部と手を組むようになっているからだ。
スーチーは12月10日、ハーグの法廷で、ジェノサイドの目撃者が集団レイプや子供たちの虐殺、一家全員を生きたまま焼き殺すなどの残虐行為について証言を行う間、表情ひとつ変えずに聞いていた。そして翌11日証言に立ち、ジェノサイドという非難は「誤解を招く」ものだと主張した。ミャンマー西部のラカイン州で行われた軍事作戦は、ロヒンギャの武装集団が警察を襲撃したために始まった過激派掃討作戦だ、というのだ。
ミャンマーはあらゆるものを奪った
スーチーを支持してきた国際社会の一部は、軍部によるジェノサイドの疑いが強まっても、当初は彼女の言い分を善意に解釈していた。ミャンマーでは2016年に歴史的な政権交代が実現し、スーチー率いる国民民主連盟が政権を握ったが、その後も軍部が大きな影響力を持ち、スーチーはかつて自分を自宅軟禁下に置いた軍指導部と協調せざるを得なかった。軍部の残虐行為を声高に非難すれば政治的な命取りになりかねないので、きっと表に出ない形で虐殺を止めようとしているのに違いない──欧米のスーチー支持者はそう見ていた。
だが国際社会が見守るハーグの法廷で軍部の犯罪行為を積極的に弁明した以上、こうした見方は成り立たない。スーチーは、虐殺を止め、民主化を進める権力を維持するために軍部と協力したのではない。仏教徒が圧倒的多数を占める国内世論の支持を得るために、反ロヒンギャに回ったのだ。
「国際社会は今こそ目覚めなければならない。(ミャンマーの)政府と軍は協力関係にある」と、ロンドンに本拠を置く英国ビルマ・ロヒンギャ協会のトゥン・キン会長は言う。「政府はロヒンギャを人間扱いせず、軍部が進める意図的な迫害に加担した。市民権、民族的アイデンティティー、教育を受ける権利、食料を確保する権利に至るまで、ロヒンギャからあらゆるものを奪った」
ロヒンギャもまたスーチーの変節にショックを受けていると、トゥン・キンは話した。「私たちは長年、(民主化の)シンボルとして彼女を支持してきた。民主化が実現すれば、ロヒンギャも含め、国民全員に諸権利が保障されると信じていた。スーチーが軟禁状態から解放されるよう、私は長年運動してきた。残念ながら彼女は宗旨替えし、完全に軍部に取り込まれてしまった。信じがたい裏切りだ」
<参考記事>ロヒンギャを迫害する仏教徒側の論理
<参考記事>人権の女神スーチーは、悪魔になり果てたのか