香港「逃亡犯条例」改正反対デモ──香港の「遺伝子改造」への抵抗
自由を守る戦い 香港の地下鉄九龍駅で、さらなるデモへの参加を呼び掛ける若者(2019年8月21日) Ann Wang−REUTERS
<警官隊と衝突しても、中国に脅されても、何度でも立ち上がる若者たちのルーツと、彼らが直面する香港の悲劇>
刑事事件容疑者を香港から中国大陸・台湾・マカオにも引き渡すことを可能とする「逃亡犯条例」の改正をめぐり発生した、香港の抗議活動が止まらない。
6月9日の「103万人デモ」(主催者側発表)以来、毎週各地で大規模なデモ行進・集会が発生し、7月以降は警察との衝突による催涙弾の使用も半ば常態化した。8月5日にはゼネストが発動され、鉄道・バスの運休に加え、香港空港発着の200便以上が欠航となった。
逃亡犯条例の改正が2019年2月に政府から提案されたきっかけは、2018年2月に発生した、香港人の男が、交際中の女性を旅先の台湾で殺害し、香港に逃げ帰ったという事件である。
引き渡し制度の不在のため、犯人を殺人罪で裁けないという問題が生じ、それへの対応として、政府は条例改正を目指した。しかし、政治とは無関係のこの事件が、通常ならば香港全体を巻き込む大問題になるとは考えがたい。
なぜこれほどの抗議活動が生じたのか。それは「容疑者を大陸に引き渡す」ことが、様々な理由で、香港の特徴の根幹に触れ、そのあり方を根本から変える、言わば香港の「遺伝子改造」となると警戒されたためである。
「逃亡犯」の街──引き渡しの恐怖
「103万人デモ」当日、香港紙『明報』はデモ参加者にアンケートを実施した。それによれば、彼らが条例改正に反対する理由のなかで、「自分・家族または友人が大陸に引き渡されると心配するから」とした者は56.2%にものぼった。
相当数の一般市民が、大陸への引き渡しを身に迫る危険と感じるのはなぜか。恐らくその背景には、そもそも香港そのものが「逃亡犯」の街であるという歴史がある。
第二次大戦後、中国では国共内戦から毛沢東の極端な社会主義独裁統治へと、政治・経済の混乱が頻発した。飢餓や迫害を免れるため、多くの難民が大陸から英領香港へと逃亡した。そうした難民と、その子孫が多数派を占めるのが今の香港である。
難民はもちろん生きるための選択であったが、見方によっては、祖国を捨てて植民地に身を投じた「逃亡犯」である。2012年には、北京大学の教授がテレビ出演の際、「多くの香港人は犬」と発言して大問題になった。ここでの「犬」は、「西洋人の走狗」という意味である。
こうした香港への冷たい見方は、近年経済面での「香港不要論」が勢いを得て、香港への憧れが減退している大陸で、強まっている。
「中国に送られる」こと、愛国心を基準に裁かれることは、香港人にとって悪夢である。かつて香港の親は子どもを叱る際、「悪い子は大陸に送るよ」と脅したともいう。実際、植民地期のイギリス香港政庁は、中国共産党寄りの活動家などを中国に追放するという「刑罰」を持っていた。