BTSはなぜ「原爆Tシャツ」を着たのか?原爆投下降伏論のウソ
【2】本土決戦のためのソ連中立維持
1941年12月8日、日本機動部隊の真珠湾奇襲により、第二次大戦は世界規模に拡大した。遡ること1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結。5年間の相互不可侵条約体制で後顧の憂いを絶った日本は、南方作戦に代表される「南進」に踏み切ったのである。
しかし1943年にイタリアが枢軸から脱落、1945年5月にはドイツが無条件降伏すると、枢軸で残るのは日本ただ一国となり、戦局の行方は誰が観ても絶望的であった。ソビエトは1945年2月、クリミア半島の保養地・ヤルタで連合国首脳と会談を開いた(米英ソ三巨頭首脳会議)。このとき取り決められたのは「ドイツ降伏後、三ヶ月以内にソビエトは日本に宣戦布告する」という内容であった。所謂「ヤルタの密約」である。
が、日本側はこの「ヤルタの密約」を全く知らなかった。1945年4月1日、米軍作戦部隊50万人が沖縄に殺到。同5月末には首里の日本軍司令部が陥落し、同6月23日、摩文仁に追い詰められた日本第32軍は玉砕した。このような絶望的な状況の中、大本営と政府は、「本土決戦」の準備とその完遂にますます意を堅くした。
日米の戦いはガダルカナル、サイパン、沖縄、硫黄島など島嶼を巡る争いであった。1945年の段階で、満州を含む大陸に200万人以上の兵力を有する陸軍は、「日米の本格的会戦はまだ行われて居ない」と主張して、「本土決戦は、最初の一回だけなら必ず勝てる。その勝機を利用して我が方に有利な講和条件を見いだす」という理屈に傾いていた。これを「一撃講和論」と呼ぶ。
そのためには、ソビエトの対日参戦だけは絶対に防止しなければならない。ソビエトに参戦されると、防備が手薄な満州・朝鮮が失陥する事になり、本土決戦の目算が全てご破算になる。つまり「本土決戦」の最低必要条件は、ソ連が中立状態を維持してくれること。この一点に尽きたのである。
【3】日本降伏の決定打となったソ連参戦
1945年5月に行なわれた最高戦争指導会議では、本土決戦の完遂を前提とした対ソ外交の要点を、以下の三点として明記している。
1)ソビエトの参戦防止
2)ソビエトの好意的中立の獲得
3)戦争終結に関しソビエトをして日本に有利な仲介をさせる
出典:ドキュメント太平洋戦争「一億玉砕への道」(NHK取材班、角川書店)
現在から振り返ると、全く日本側の楽観と虫の良い外交方針であるが、当時の戦争指導者達の素直な対ソ戦略の皮膚感覚であった。しかしこの日本側の期待を裏切るように、1945年2月の「ヤルタの密約」でソ連対日参戦は決定事項であったのは既に述べたとおりだ。また恐らくそのもっと前から―すなわち、ソ連が対独戦を有利に進めていた1944年の段階から―スターリンの頭の中で、対日宣戦布告は既定路線であっただろう。