コフィ・アナン負の遺産──国連はなぜルワンダ虐殺を止められなかったのか?
ダレール司令官は武器庫の視察を提案したが、アナン氏は、安保理にもUNAMIRにも、その権限はないことを指摘した。その上で、この情報を在ルワンダのフランス、アメリカ、ベルギー大使館、そしてルワンダ大統領から確認するように助言した。アナン氏は、その後起こったジェノサイドを振り返ると、なぜそのような助言をしたのかと自問したとのことだが、当時PKOを取り巻いていた全ての間違いを想起するに、これ以外の結論にはたどり着くことはできなかったという。何しろ、当時ルワンダの同盟国のフランス以外の安保理国は、ソマリアやボスニアにおける複雑で大規模な活動にてこずっている状況で、ルワンダのような無名な国に介入することにほとんど関心がなかったからである。
1994年4月6日夜、ルワンダのハビャリマナ大統領機が首都キガリの国際空港に着陸する直前に撃墜され、その数時間後から政府軍・民兵とRPFの両者による殺戮が始まった。7日に政府軍がベルギー兵士10名を殺害したことを受けて、ベルギー政府は、UNAMIRの主力であるベルギー軍の即時撤退を発表した。
4月8日、安保理はUNAMIRに停戦協定のためにすべての可能な行動をするようにという、最初の指令を出した。しかし、ダレール司令官曰く、ハビャリマナ大統領の暗殺後に設立された新暫定政府は4月12日、RPFに休戦を提案したものの、RPFは交渉する意思がないように見えたという。
そもそも内戦中の1991年も1992年も停戦合意が結ばれたが、ルワンダ政府と違ってRPFはそれを尊重することはなかった。RPFはウガンダを後方基地として使用し、ウガンダからの軍事支援に依存していた。ハビャリマナ大統領機を撃墜したミサイルも、RPFがウガンダから運ばせたと言われている。RPFは、トラックで料理用のまきを輸送していると見せかけて、そのまきの中にミサイルを隠していた疑惑が強い。
4月21日に国連安全保障理事会は、UNAMIRの人員の縮小を決議した。しかし、その8日後の4月29日、大量のルワンダ人が難民として国外に流出し始め、ガリ国連事務総長と国連安保理は、それがルワンダと近隣国などの地域全体に不安定をもたらすことをおそれ、殺戮を止めなければならないことに同意した。国連は、ツチの文民を保護するために、さらに強い任務を有する新しいPKOの派遣について議論し始めた。