オーストラリアは忘れまい、しかし許そう
FORGIVING WITHOUT FORGETTING
だが平均的なオーストラリア人は、今の日本にそれほど恨みを抱いていない。「最近の歴史教科書は、当時の日本人が私たち同様、時代の要請によって厳しい立場に置かれていたことに配慮した表現を用いるようになった」と歴史家のジョン・コナーは言う。
時間が傷を癒やしたのも事実なら、地政学的な要請があったのも事実。戦後すぐに東西冷戦が始まり、アメリカは日本を民主化して同盟国に加え、「反共の砦」にしようと考えた。オーストラリアもその方針を受け入れたが、最後の日本人抑留者を解放したのは54年になってから。他国より比較的遅かった背景には、同胞の捕虜体験にまつわる怒りと悲しみがあった。
オーストラリアを変えた戦争
その後、オーストラリアは現実路線に転換した。57年には日豪通商協定を結び、他国に先駆けて日本との交易を再開している。「もちろん摩擦はあった。オーストラリアは70年代まで非白人の移住を制限していたし、80年代には日本企業の進出に危機感を募らせていた」と、マードック大学のディーン・アスケロビッチュは言う。
今のオーストラリアは、かつての敵とすっかり仲直りした。戦後の日本はオーストラリアの天然資源のお得意様となり、ほぼ半世紀にわたり最大の貿易パートナーだった。
戦争の犠牲者は4万人だが、中国の1500万人に比べれば微々たるもの。これも傷を癒やしやすかった一因だろう。結果、オーストラリア国立大学のマイケル・ウェスリー教授が言うように「アジアの多くの国は今も日本に対して苦い思いを抱いているが、オーストラリア人の恨みは消えた」。
あの戦争の経験は、むしろ両国の友好関係を一段と深める役に立っている。1年前、オーストラリアを公式訪問した安倍晋三首相は上下両院の総会で、たどたどしい英語で、日本はあの戦争を後悔していると語った。これにはオーストラリアで最も頭の固い人たちも心を動かされたものだ。
日本軍によるシドニー港攻撃では、特殊潜航艇に乗り込んだ日本兵4人が自爆していた。そのうちの1人の母親が68年にオーストラリアに招待されたことに、安倍は謝意を表した。するとトニー・アボット首相も、戦時下にもかかわらず自爆兵を手厚く葬ったエピソードを紹介。両首脳の息の合った意見交換は経済連携協定での合意に結び付き、オーストラリア海軍の新型潜水艦開発に日本が協力する話も出ている。