在韓米軍の撤退はジレンマだらけ
その難しさを最もよく示すのは、77年1月に米大統領に就任したジミー・カーターが味わった挫折だろう。
カーターはホワイトハウス入りするとすぐに、韓国から第2歩兵師団を撤退させるという公約の実行に動いた。だが79年7月にこの政策は、米国内の外交主流派と議会や、太平洋地域の同盟諸国の抵抗に遭って頓挫した。カーターの失敗は、いま在韓米軍撤退論を考える上で重要な教訓になる。
そもそも、撤退に4~5年かけるというカーターのタイムテーブル自体に異論が多かった。だが、これだけ時間をかけた計画をカーターにのませたのは、実は米統合参謀本部だった。
撤退計画が書かれた書類の余白に、カーターは「遅過ぎる」とメモしていた。政権内部の議論の内容からも、カーター自身は当初1年以内の撤退を考えていたことがうかがわれる。だが反対派は事前に完了時期を設定せず、状況に応じて対応すべきだと考えていた。
さらにカーターは北朝鮮からも、その後ろ盾である中国やソ連からも譲歩を引き出そうとしなかった。撤退反対派にすれば、カーターのやり方は首をひねるものだった。本来なら米軍撤退を交渉の切り札にして、平和協定や不可侵条約を引き出すのが筋だろう。こうした議論が今回も起こる可能性はある。
反カーター派は在韓米軍をより大きな地域覇権構造の一部と見ており、撤退によってそれが足元から崩れることを恐れた。在韓米軍は西太平洋地域に広がる米軍のネットワークの拠点の1つであり、ベトナム戦争後もアジア大陸に残る最後の駐留米軍として重要度を増していた。その政治的・心理的価値は、軍事的な理由と同じほど高かった。
国家安全保障問題に関わる当局者は、手続き上の障害をつくり上げた。国際安全保障問題担当の国防副次官補だったモートン・アブラモウィッツは、政策遂行に向けての省庁間作業部会の責任者として、「私たちは引き延ばし作戦を開始した。遅らせる、薄める、決定事項はできるだけ少なく――という方針だった」と語っている。
韓国政府への補償として、カーターは巨額の軍事援助をもくろみ米軍の撤退は3段階で行うと構想した。最大規模の部隊の撤退は最終段階にというものだ。
これに対し、まず議会が軍事援助を妨害した。次に78~79年の冬、北朝鮮の戦力は予想以上に大規模で重装備の機甲部隊だという情報が情報活動からもたらされた。これはカーター政権内の反対派が撤退案にとどめを刺す根拠となった。
追い詰められたカーターは、米韓朝の3カ国首脳会談開催に望みをかけた。79年6月に予定されていた韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領との首脳会談を直後に控えての試みだった。しかし首脳会談開催という手はあまりに遅過ぎ、成果にはつながらなかった。