【写真特集】LGBTQの親を持つ子供たち
<Adrian>
感謝祭の日、大学から自宅に帰ると、母親以外のもう1人の女性が暮らしていた。父親は2、3カ月前に家を出ていた。「友達?」って僕が言うと、母は「そう。そういうことなの」って感じで、はっきり言わなかった。たぶん彼女は心の準備ができていなかったのかもしれないし、僕のほうができていなかったのかもしれない。嫌な気持ちはしなかったし、裏切られたとも感じなかった。でも大喜びしたわけでもない。一歩下がって、自分の中で処理する必要があったんだと思う。母は、僕が大学に入るまで待ったんだろう。「息子は家を出て、自分のすべきことをしている。私が自分の人生を生きる時が来た」って感じだったのかな。
アメリカ人はすぐに人を判断しようとする
母親が2人いるとか、人種や民族のこととか
自分の場合は母のことより、
人種が問題になることが多い
<Zach>
僕はニューオーリンズで生まれた。ベトナム人の母パトリシアは16歳で、スペイン人で黒人の父チャールズは17歳だった。僕はバーバラとキムの養子になった。つまり僕には2人の母親がいる。母親のことで最初に問題が起きたのは小学3年生のとき。みんなに「ママが2人なんて、超羨ましいね」と言われた。子供にとっては、レズビアンやゲイなんて「どうでもいいこと」って感じだった。正直言って、そのことを心配し過ぎる親がいると思う。当時、「なぜあなたは黒人で、彼らは白人なの?」「なぜあなたはアジア系なの?」と周囲からよく聞かれたのを覚えている。僕は「養子だから」と答えていた。多くの子供にとっては、それで十分だった。
<Molly>
15歳になる前の春、父親がトランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)だと私たちに打ち明けた。母はたぶん結婚早々か、1、2年たった頃から分かっていたと思う。父が私と姉妹、いとこを台所に連れていって、そのことを話した。私たちはとても進歩的な家族だったけど、それでも父のことは奇異に思えた。たしか1年後に両親は別れた。その頃には父は変わり始めていて、私たちに会いに来るときは男性の服装にピアスやネイル。名前もオースティンからビビアンに変わった。私が最もつらかったことの1つは、父が家族の中で自然に振る舞えず、家族の一員と思えずにいたようだと、しばらくしてから分かったこと。
幼稚園の先生とけんかしたことがある
父の日のカードを作ったとき、父はいないと
言い張る私を先生は信じてくれなかった
<Jamie>
母は私が子供の頃から、大人扱いしてくれた。私たちは友達みたいで、それでうまくいっていた。私が10歳の頃に大切な話をしたと、母は言う。全てを細かく話して、私は「ちょっと待って、あなたはレズビアンということ?」って言ったらしい。「あなたは怒った。ショックを受けていた」と母は言うけど、私は全然覚えていない。記憶力はいいのに、そのときのことは頭から遮断したのだろう。幼稚園のときには友達に、父がいないと話したのを覚えている。「どうして?」と聞かれるから、「ママが私を生むのをお医者さんが手伝ってくれた」と答えた。
撮影:ガブリエラ・ハーマン
米ニューヨークを拠点として、旅、食、ライフスタイルをテーマの広告写真や、ニューヨーク・タイムズ、ワイアードなどの新聞・雑誌を中心に活躍している。本作は、新刊写真集『The Kids ― The Children of LGBTQ Parents in the USA 』からの抜粋
Photographs by Gabriela Herman from the book "The Kids: The Children of LGBTQ Parents in the USA" published by The New Press
[本誌2017年10月24日号掲載]