共産党が怖がる儒教の復権
共産党は道徳的な指導力を独自に示そうとしている。しかしその道徳とは、共産党自身が定義し、コントロールする道徳だ。この図式の中で儒教は、いかに高潔に生きて不当な指導者を批判するか、あるいはいかに優れた統治を行うかという指針を示すよりも、中国の偉大さをたたえる国粋主義的な主張の背景としての役割を果たしている。
しかも共産党の現指導層には、古代中国の君主たちよりも、さらに儒教を恐れる理由がある。
習は自分を教養ある紳士として見せたがり、演説に古典の引用をちりばめる。その一方で彼は、共産党の支配の及ばないような概念的・哲学的な流れを拒絶している。
習は儒教やその他の伝統的文化の復活を進んで容認し、奨励さえしている。だがそれは、共産党の覇権を脅かさない場合に限った話だ。共産党指導部にしてみれば、私立の儒教学校の台頭のような比較的小さな社会の動きでさえ、初期の段階で抑えておく必要がある。
そうしなければ孔子の言葉が、習とその仲間たちを脅かすことになるかもしれないからだ。孔子はこう言った。
「もし君主の言葉が間違っていて、誰も反対する者がいないのであれば、それはまさに、わずか一言で国家が滅亡するという事態に近いと言えるだろう」
[2017年6月13日号掲載]