共産党が怖がる儒教の復権
古くから儒教は、国家を支持するために使われたが、同時に国家に反抗する道具にもなってきた。
漢王朝の武帝(在位・紀元前141年~前87年)は、儒教の教育を受けた者を好んで要職に登用した。正式に儒教を取り入れた官僚登用試験が行われたのは650年頃で、明朝時代(1368~1644年)にさらに厳密に制度化された。以降、国家権力の近くに身を置くことができるのは、儒教の古典を学んだ者に限られた。
しかし、儒教が権威に対してむやみに追従を示したことは一度もない。歴史のさまざまな時点において、高潔な官僚たちは儒教の原則を引用し、理不尽な君主を批判してきた。その1人である明朝時代の官僚、海瑞の物語は、毛沢東の権威主義に対する批判と見なされて毛沢東に利用され、文化大革命につながることになった。
それから現在にかけて、中国からは道徳が失われていったと多くの中国国民は考えている。私立の儒教学校の存在は、多くの国民が文化面で不安を抱えていることの証しだ。経済の急成長は、都市化や物質主義化、性的解放や個人主義化という急激な変化を社会にもたらした。
この混沌とした状況の中で、毛沢東時代に既に崩壊していた道徳的方向性が失われたという実感が広がっている。何が善で何が悪か、国民が共通の感覚を抱けなくなっていると指摘する知識人たちもいる。中国は「道徳の危機」とも言うべき状況にあるのだ。
不確実な時代に直面し、多くの国民が宗教に目を向けた。この流れの中で、儒教を道徳的指針の源と考える人たちが出てきた。儒教は厳密には宗教ではないが、機能としては宗教的な役割を果たしている。
そんな中、一部の市民が私立学校を開設した。伝統的な儒教の書物や慣習に基づくカリキュラムを用いて、小中学生に道徳を基礎とする教育を提供。公立学校をやめる決心がつかない子供たちのために放課後や週末の授業を提供する学校もある。
だがこうして増えた私立学校の存在は、義務教育の全国的な基準と衝突する。
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党の言う道徳とは別もの
中国では、全ての子供は中学校教育を修了することが求められている。教育当局は学年ごとに、全国共通のカリキュラムを設定している。全国の中学3年生は同じ試験を受け、それによって高校や大学に進学できるかどうかが決まる。厳格である上に競争の激しいシステムだ。
そのため、道徳的に意義ある教育を求める保護者たちは、困難な選択に直面する。わが子を私立の儒教学校に入学させれば(入学させるのにも義務教育法の履行を任されている地方自治体の承認が必要だ)、子供の進学に不利になる可能性がある。『論語』や『孟子』の暗唱に時間を費やせば、国立の高校や大学への進学に向けた準備に費やす時間を削ることになる。