難民キャンプで暮らす人々への敬意について
活動者たちのもとへ
待ち合わせのクリスティーナ・パパゲオルジオさんは、智子さんも所属しているOCP(オペレーションセンター・パリ)のプロジェクト・コーディネーターだった。
谷口さんが携帯で連絡して数分、俺は暑い埠頭で目を細めていた。やがて小型車がやってきて、小太りでメガネの男性とやせた女性が乗っているのがわかった。女性がクリスティーナさんだった。
すぐに俺たちも車に乗った。小型車はまたのろのろと動き出し、通り過ぎたテントの近くで右折して港の脇へ入っていった。
そこに倉庫があり、先にプレハブの施設が建っていた。施設の入り口には白いアウトドア用の屋根が張ってあって、様々な形の椅子が置かれていた。クリスティーナさんが導くその場所には、とても若い男性ティモス・チャリアマリアスがいた。彼は看護師マネージャーだった。
蒸した施設の中にはけっこう人がいた。それは簡易的な医院で、訪ねてくる患者さんに薬を処方したり、体温や血液を検査したりする場所だった。医師の他に、もちろん例の文化的仲介者(カルチュラル・コーディネーター)もいた。アラビア圏担当、アフガニスタン担当と分かれて、彼らは難民の方々と医師の間をつないでいた。
クリスティーナさんの話では、今年(2016)の2月までそこはただの港だった。ところが難民の北の国々へのルートが断たれてから彼らの行き先がなくなった。アテネ周辺の難民キャンプの建設も追いつかず、一時は5000人が倉庫を中心とするエリアで生活していたという。。そして今もなお1000人が埠頭にテントを立てているというのだった。
近くに「SOLIDARITY」と書かれた車が止まっていた。それもまた「連帯」というNGOであり、食料や水道水を難民へと提供しているのだそうだった。他に、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)がトイレを担当しているとも聞いた。そうした団体に文化的仲介者を紹介しているのはMSFだった。
E1ゲート以外の埠頭にも難民キャンプがある、とクリスティーナさんは教えてくれた。そちらはそちらでまた別の市民団体が動いているようだった。ということはE1にはピレウス港で受け入れられた人々の何割かが暮らしているというわけだ。数百人だろう。
前日、MSFギリシャ会長クリストス氏にまさに聞いた通り、様々なチャリティ団体がそれぞれに力を出しあって難民キャンプを支えているのが、話によってよくわかった。それはEU内で起こった難事であるがゆえのメリットでもあろうと俺は思った。もともとさかんだった市民運動がネットワークしやすかったのだ。
白い屋根の下とはいえ暑かった。風は生ぬるく、汗がひっきりなしに出た。クリスティーナさん自身、インド更紗のスカートにタンクトップ、そして耳にはピアスというリゾートファッションだった。彼女の横でティモスがサングラスをかけたまま情報を加えてくれた。
最初は医療的に赤ん坊への対処が多かったのだという。急に具合が悪くなったり、ひょっとしたら出産も多数あったはずだ。しかし今は滞在期間も長くなり、糖尿病といった生活習慣病、皮膚のケア、感染症などが医療の中心になってきているそうだった。
そのへんまで聞いたあたりで、ヒジャブをかぶった黒い長衣の母親が訪ねてきた。彼女の夫も脇にいた。夫婦は半ズボンの子供を連れていた。母親が共に施設内に入っていくと、父と子供がその場に残った。