シモン・ペレスが中東に遺した「楽観主義」
「イスラエル国民は和平に向けた壮大な空想に別れを告げる気持ちだ」とウィルフは言った。「でも暗い雰囲気に変わったのはずっと前からだった。歴史を変える激しい暴力をずっと目にしてきたから。彼の死には象徴的な意味があっても、地政学的に見ると何も変わらない。和平実現ができるかどうかは、たった一人の人間よりも遥かに大きい力によって決まるはずだ」
オスロ合意以降、ペレスはイスラエルで批判の的になった。左派はラビン暗殺の責任を彼に負わせようとし、右派はパレスチナ人による相次ぐテロ攻撃はペレスのせいだと非難した。1996年には、和平反対派の急先鋒だったネタニヤフ率いる右派政党リクードに選挙で敗れた。2000年に第2次インティファーダ(イスラエルのパレスチナ軍事占領に反対する民衆蜂起)が起きて以降、ペレスはイスラエルとパレスチナの関係強化を目指す非政府組織「ペレス平和センター」や民間のプロジェクトに活動の軸足を移した。
2000年代半ばに中道政党への合流などで再び政治活動を活発化させた時期もあったが、多くのイスラエル国民の目には、彼の実際的な政治的影響力はラビンの暗殺によって途絶えたと映る。
「武器で子供は養えない」
だが中道左派の「シオニスト・ユニオン党」を率いるアイザック・ヘルツォグ党首は、違う見方をする。「ペレスが提唱した2国家共存はまだ辛うじて生きている。彼は新たな中東を夢見ていたし、色々な意味でそれを実現するチャンスはある。不幸なのは、イスラエルとパレスチナ双方の住民の大多数が2国家共存に向かうことを望んでいるのに、政治的な妨げによって交渉が進展していないことだ。今すぐには難しいが100年後には、ペレスが書き残し想像した多くのことがきっと実現しているだろう」
ペレスが主張し続けた平和の概念には、武器を捨てる以上の意味が込められていた。教育や芸術に資本を配分し、目の前しか見てこなかった国に長期的な視野に立った解決をもたらすことこそが、平和を意味すると訴えた。
オスロ合意に調印した日、ペレスはこう言った。「愛国心や武器だけでいつまでも子どもを養うことはできない。もっと本質的なものが必要だ。子どもを教育し、紛争に費やすお金を減らし、科学や技術、産業を発展させない限り、豊かな未来を手にできない」
アメリカ生まれのイスラエル人作家でジャーナリストのヨッシ・クレイン・ハレヴィは、ペレスを「長い先を見据えた提唱者」と称し、存命中に和平合意にたどりつけなかったのは和平プロセス自体に欠陥があったためだと言った。