ニュース価値の有無で言論を制限する危うさ
ゴーカーがネットに流したホーガンの動画はこの基準にあてはまらないが、代わりに持ち出されたのが「ニュース価値の有無」という新たな判断基準。ニュース価値があるかないかによって言論の自由が制限されるのを既成事実化する危険をはらんでいる。
つまり、ジャーナリストによる報道が「ニュース価値」という一線を超えて「センセーショナリズム」だと判断された時点で、憲法による言論の自由が保障されなくなる気配があるのだ。
判決1つで報道機関が閉鎖に
言論の自由を支持するからといって、人々が必ずしも扇情的で誹謗中傷に溢れた報道を望んでいるわけではない。
もし特定の個人に対して直接的な損害を与える内容の記事が掲載されれば、被害者は名誉棄損やプライバシー侵害、肖像の不正使用などの権利侵害を訴えることができる。ただし、著名人や政治家といった「公人」が名誉棄損を訴える場合には、原告が被告側の悪意を証明しなければならず、一般の人々と比べて大きな証明責任を負うことになる。
ホーガンは、名誉棄損法の延長線上にあるプライバシー侵害を理由に訴訟を起こした。プライバシー侵害であれば、原告側が被告の悪意を証明することは必ずしも求められないが、もし立証できれば懲罰的賠償と精神的苦痛に対する損害賠償支払いの根拠となる。事実、総額1億4000万ドルの賠償金のうち、2500万ドルが懲罰的賠償、6000万ドルが精神的苦痛に対する損害賠償に充てられた。
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アメリカの長い判例の歴史をたどれば、飛びぬけて高額というわけではないが、たった一つの判決で報道機関が破たんに追い込まれるとすれば、メディアに対する不当な規制に悪用されかねない。支払いを命じられたゴーカーは、陪審員の「情熱と偏見」の結果だと訴えた。
陪審員が「ニュース価値がない」と決定した表現には憲法上の言論の自由が保障されず、会社が潰れるほど高額の損害賠償を命じられるとしたら、それは言論に対する国家ぐるみの懲罰行為になる。
理性的な頭があれば、ホーガンに対する損害賠償が行き過ぎかどうか考えることができる。だが、原告のプライバシーとニュース価値のバランスを陪審員に決めさせるとなると、困ったことになるのではないか。
著名人や政治家にも、悪意があり嘘つきの被告から正当な賠償を受け取る権利はある。だが修正第一条には、自由を保障される言論を「陪審員がニュース価値があると認めたもの」に限ったりはしていない。
This article first appeared on the Foundation for Economic Education site.