「表現の自由」の美名に隠れた憎悪も糾弾せよ
理想を貫いたシャルリ・エブドの「殉教者」たちは勇敢だったが、差別的な風刺画は擁護できない
自覚が必要 単なる攻撃でしかない風刺画もある(仏ストラスブールの欧州議会前で表現の自由を求めるデモ) Vincent Kessler-Reuters
犠牲になった週刊紙シャルリ・エブドの編集者や風刺画家は、今や「表現の自由」という大義の殉職者と化した。殺害の脅迫にも屈せず風刺画を掲載してイスラム過激派を皮肉ってみせ、銃弾に倒れた。私たちが尊ぶ表現の自由という理想のために、勇敢なる死を遂げたとたたえられている。
だが、そう単純な話でもない。預言者ムハンマドを題材にした彼らの風刺画は、無分別で人種差別的だったとも言えるだろう。
すべての風刺画がそうだったとは思わない。スンニ派テロ組織ISIS(自称イスラム国、別名ISIL)戦闘員がムハンマドの首を切り落とそうとしている絵は、過激派がいかにイスラムの信仰から乖離しているかという矛盾を鋭く突いていた。
それでも大方の風刺画はムハンマドをかぎ鼻の悪党として描いていた。ムハンマドの絵を描くこと自体を冒涜と考えるイスラム教徒の怒りをあおることだけが目的のようにも見えた。
ただでさえフランスのイスラム教徒たちは貧困と差別に苦しんでいる。この国ではナショナリズムの高まりとともに、世俗主義や言論の自由といったリベラルな価値観を隠れみのにした外国人排斥がまかり通っている。
シャルリ・エブドは、誰をも平等に風刺の対象としていると主張するかもしれない。だが「白人至上主義」との批判があるのもうなずける。あるオンライン雑誌の投稿にあったように、「白人男性による攻撃は優れた風刺にはなりにくい」。
シャルリ・エブドの作品は勇敢であると同時に下劣でもあったが、この現実は受け入れ難いようだ。テロ事件後に巻き起こった議論は大抵、欧米人がイスラム教徒の感情を害することは許されるか許されないか、という二者択一だった。ムハンマドを描くことは言論の自由の下に擁護されるべきなのか、一切慎むべきなのか。
ニューヨーク誌のジョナサン・チェートに言わせると、答えは明白だ。「宗教を冒涜する権利は自由社会の最も基本的な権利の1つだ」と、彼は書いた。