「表現の自由」の美名に隠れた憎悪も糾弾せよ
『悪魔の詩』とは別問題
だが、この問題を二者択一で論じるのは誤りだ。私たちは罰せられることなく、憎悪に満ちた発言やばかげた言葉を口にできる。だがその権利を行使するためには、自分がしていることが憎悪に満ちたりばかげていることを自覚しなければならないし、場合によっては擁護してもらえないこともあると認識しなければならない。
リベラル派ブロガーのマシュー・イグレシアスが主張したように、シャルリ・エブドを擁護するのは必要ながらも「遺憾なこと」だ。彼らは反イスラム感情を巧妙に覆い隠し、「辺境に追いやられた少数派を苦しめる」。それに従い、怒れる過激派も増大することになる。
明白な人種差別も権利の1つであると声高に主張するのであれば、私たちは同時に明白な人種差別を声高に非難するべきだ。「先鋭的」風刺画が単にくだらないイスラム攻撃である場合は、そう指摘しなければならない。
サルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』は欧米で高く評価され、イスラム世界では猛反発を呼んだ問題作だが、すべてのムハンマド風刺が同列であるかのように扱われるのは間違いだ。
フランス全土が悲しみに沈む今、こうした問題を論じることは難しいが、必要なことでもある。現時点でグーグルはシャルリ・エブドに30万ドル近い寄付を申し出ており、英ガーディアン・メディアグループも15万ドルを寄付、フランス政府は100万ユーロ超の支援を約束している。
表現の自由を支持する力強い動きだ。だが同紙の「表現」は、政府が支援すべきたぐいのものとは思えない。
© 2015, Slate
[2015年1月20日号掲載]