沖縄の護国神社(2)
この仮社殿造営の苦労を、神社の代表役員を務めたことのある元立法院議長・長嶺秋夫は「異民族支配の下にありながら宗教関係本土法(ママ)の適用も得られないまま暗中模索を繰り返す中」で実現した、と感慨深げに回想する(『歩み』、二六頁)。
そう、沖縄の護国神社はアメリカ占領下にあって日本の宗教法人法の管轄外にあった。そのため「宗教法人」格が取得できず、「財団法人」として運営してきたのである。だが、おかげで他の護国神社とは異なる方針を採る自由があった。
同じ頃、遺族会や事務局は神社の仮社殿造営と事業計画を各方面に知らせつつ、本格的な寄付金を集める活動に乗り出した。今にして思うと大胆な企画だが、安里積千代は四六都道府県の知事にあて次のように「霊璽簿(れいじぼ)」送付を依頼している(太字強調は筆者)。
御承知のとおり沖縄は今次大戦中最大の激戦地で彼我二十数萬の戦死者、戦争犠牲者のあった現地沖縄島でありますので、此の地の護国神社は従来の神霊とは稍々趣を異にし今次大戦において犠牲となった本県出身者の御霊を加へるのみでなく沖縄島及びその近海空域において戦没された本土同胞の御霊も合祀する趣旨で来る十一月中旬ごろわざわざ靖國神社より池田権宮司以下御来島、当地護国神社で合祀祭を挙行する計画になってゐますので、勝手ながら実に恐縮に存じますが祭祀に間に合うように貴(府)県出身該当者名簿(止むを得ないときは何某外何柱の霊璽)御送付方お取り計らい下さいますよう御願い申し上げます。
護国神社とは通常、その県(元は藩)出身の戦没者を祀る。例えば広島では原爆の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒や女子挺身隊も祀ったり、終戦後に社名を変更していた際に配祀された伊邪那岐・伊邪那美や天照を祀ったりと、神社ごとに独自の方針や歴史はあるものの、他府県出身の者も合祀する護国神社はほかにない。
送付した日付は合祀祭まで二カ月を切った九月十八日だったが、無事に協力が寄せられ、十一月十五日の第一回秋季例大祭では本土出身六万五七一七柱を新たに合祀した。祭神は合わせて一七万九二二八柱となった。祭主は靖國神社権宮司・池田良八で、靖國神社から神職五人も来て祭員を務め、多数の遺族が参列して感涙した、と社史や遺族会は伝える。
この一九五九年の暮れ、ひとまずの目的を達した「靖國神社奉賛会沖縄地方本部」は、霊域の管理と遺族の慰藉を目的に「沖縄戦没者慰霊奉賛会」へと改組された。顔ぶれはほぼ同じままで発足し、翌年末、会長が行政主席の大田政作に交代した。ここへ事務局員として新たに採用されたのが加治順正である。
※第3回:沖縄の護国神社(3)はこちら
[注]
(3)昨今やたら推奨される「しまくとぅば」(島言葉)と違い、実際の沖縄方言は地域ごとに異なり、ほんの二十キロ離れただけで通じないこともある。加治家の場合、義父は八重山、義母はやんばる、沖縄の南北両端から那覇に来たため、互いの方言では会話ができない。家庭内では標準日本語が使われ、那覇生まれの子供たち世代は方言が話せない。
[執筆者]
宮武実知子(主婦) Michiko Miyatake
1972年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。現在、新潮社『webでも考える人』で「チャーリーさんのタコスの味―ある沖縄史」を連載中。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス