沖縄の護国神社(3)
「アステイオン」84号より
論壇誌「アステイオン」84号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、5月19日発行)から、宮武実知子氏による論考「沖縄の護国神社」を4回に分けて転載する。かつて「戦没者の慰霊」をテーマにした社会学者の卵だった宮武氏は、聞き取り調査で訪れた沖縄の護国神社の権禰宜(現宮司)と結婚。現在は沖縄県宜野湾市に暮らす。本論考はいわば「元ミイラ取りによる現地レポート」だと宮武氏は言うが、異なる宗教文化を持つ沖縄にある護国神社とは、一体いかなる存在なのか。その知られざる歴史を紐解く。
(写真:1966年の慰霊祭。テントの下に入りきらない遺族が地面に座る。提供:沖縄県公文書館)
※第1回:沖縄の護国神社(1)はこちら
※第2回:沖縄の護国神社(2)はこちら
「全琉皆様方のご協力」
一九六〇年代、沖縄では慰霊事業が盛んになった。
法定休日「慰霊の日」が初めて実施されたのは一九六二(昭和三七)年六月。この年、日本政府の沖縄調査団が二度も来沖した。摩文仁などの戦跡に次々と各都道府県の塔や慰霊碑が建ち始めた時期でもある。また、沖縄戦で親や兄姉を失った世代が遺族会青年部を担い、「慰霊の日」に「平和大行進」を主催した。第一回の行進では、那覇の遺族会館を出た三〇〇人が炎天下、護国神社を経由して摩文仁までの二四キロを歩いたという。
そんな追い風も受けて、神社の敷地復元は那覇市議会で絶対多数の賛成を得て採択された。春秋の例大祭は立錐の余地もないほどの参拝者で埋まり、例大祭の大祭委員長は行政主席、玉串奉奠(ほうてん)は遺族連合会会長のほか、立法院議長が行った。一九六三(昭和三八)年と翌年の例大祭には、米国首席民政官まで参列して玉串奉奠した。
仮社殿ながら神社の体裁は整い、次に目指すは本格的な社殿の建立である。他県のように宗教法人法に守られない沖縄の護国神社にとって、財源は広く求めねばならない。そこには最初から「みんなの神社」という象徴的な意味も込められていたようだ。
一九六三年、神社復興のための募金活動が警察局長から許可されるや、今では考えられないような多方面からの募金が集まった。
例えば、自治体である。沖縄市町村会総会での申し合わせにより、一世帯五セントを市町村ごとに分担協力することになった。自治体への割当のうち最高額は那覇市で、最終的には二二〇〇ドルが寄せられた。
その奮闘ぶりが、当時の民生課長だった玉城正次という人物の回想記から見て取れる。以前から個人的に親しかった加治順正から「一九〇〇ドルの分担金をよろしく頼む」と言われ二つ返事で引き受けたが、上からは「自治法違反となるから市は金を出せない、琉球政府も同じ見解だ」と処理済みの書類を見せられた。板挟みになった玉城はやがて「護国の英霊を祀ることは国民の義務であり、宗教宗派を超越した国民の至誠の発露だ」と信念を固め、琉球政府の地方課長に面談する。その禅問答のような攻防がおかしい。
「護国神社は宗教団体ですか」
「まぁ、そういうことでしょうな」
「摩文仁の慰霊塔はどうなんですか」
「......」
「各県こぞって建立している。宗教団体ではないと思いますが」
「その点では同感です」
「では、同じく英霊を合祀する護国神社も同様ではありませんか」
「いや、それとこれとでは...」
「私たちは、そうだと思います」
「解釈はご自由でしょう」
「なぜ政府は、那覇市が護国神社の分担金を出すのを差し止めたのですか」
「そんなことはない」
「自治法違反だと決めつけたのは、あなた方だと聞いているが...」
「自治法違反だと思うがどうか、と市から問い合わせがあったので、そうだと言ったまでです」
「それでは、違反しないと思うがどうか、とあらためて文書を出したら、そうだという御返事がいただけますか」
この粘り腰が部長を動かし助役を動かし、とうとう予算案となって市議会に提出。議会では法的解釈で散々に批判されたが、最終的には当初の申請額を上回る額が寄せられた。