沖縄の護国神社(3)
教育界からも献金を受けた。同じ一九六三年、沖縄中の小中学校の児童から一セントずつの募金を学校で(!)徴収する「一仙(せんと)募金」が行われた。これは今となってはにわかに信じがたい話である。神社復興事業を法的に進めやすくするため作った組織「沖縄県護国神社復興期成会」の評議員・屋良朝苗(やらちょうびょう)と理事・喜屋武真栄が、それぞれ沖縄教職員会(後の沖縄県教職員組合)会長と事務局長を務めていたために実現したことだ。屋良朝苗は今も沖縄史では革新系政治家のスター的存在として名を刻む。後に沖縄教職員会は「祖国復帰運動」の中心となり、戦後初の主席公選で屋良を当選させた。
一仙募金には沖縄のほぼすべての学校から協力が得られ、教職員有志が募金を寄せた学校もあった。金額としては一ドルに満たない学校から、最高でも三〇ドル程度と少額だが、沖縄の次世代から広く集めること自体に意味があったのだろう。募金を寄せた学校の名が、今も境内の銘板に残る。参拝して目を留め、「そういえば子供の頃、神社にあげようって学校にお金を持っていったよ」と懐かしがる人が時々いる。今、独特の「平和教育」を強力に推進している沖教祖や公立学校からは考えられないような歴史の一ページである。
産業界からの最大の功労者は、復興期成会の会長である具志堅宗精の企業グループ琉鵬会で、社殿建立費三万三〇〇〇ドル、具志堅個人からも一〇〇〇ドル以上の献金があった。境内に住み続けた国場幸太郎からも個人名義で五十万円、関連会社から二万ドル。地元の金融機関からなる琉球金融協会から六〇〇〇ドル、建設会社や金融機関から数百ドルずつをはじめ、多くの会社や個人商店からも広く寄付が集まった。
本土の関係団体からも支援された。全国知事会から一万五二九〇ドル、神社本庁から二〇〇〇ドル。全国護国神社会や靖國神社、本土企業の沖縄出張所や各県遺族会のほか個人からも浄財が寄せられた。やたらシーサーに似た狛犬も三重の人からの寄付である。
おかげで、その年のうちに再建工事が始まった。一九六五(昭和四〇)年八月に社殿が完成した直後には総理大臣・佐藤栄作一行が正式参拝し、新社殿で十一月一九日に行われた遷座祭にあたっては天皇から幣帛料も奉納された。一万名もの参列者で埋め尽くされ、玉串奉奠した沖縄中の各界代表者のなかには琉米親善委員長である米軍大佐までがいた。
無事に拝殿が再建され、一九六七(昭和四二)年、「復興期成会」は神社を護持する「沖縄県護国神社奉賛会」へと改組されたが、設立趣意書にある「全琉皆様方のご協力により」という表現は決して大げさなものではない。
「英霊を中心とする本土との一体化」
それにしても、アメリカ占領下の沖縄で、よりによって戦没者を祀った護国神社の復興が、なぜこんなにも一致団結した運動になれたのか。その理由は「本土復帰への想い」にあったのではないかと筆者は考える。念願の本殿が完成してまもない一九六五(昭和四〇)年頃に書かれたらしい具志堅宗精の文章と、それを義父・加治順正が「胸を打つ文章」と評したのを読んで確信を深めた。