「どこかおかしい」世の中を分析する2つのキーワード
<「ものさしの不在」と「処方箋を焦る社会」の2つに注目し、デモから差別、平和、沖縄問題、震災まで、浅はかな正義感が絡みつくさまざまな物事の本質を紐解いていく『違和感の正体』>
『違和感の正体』(先崎彰容著、新潮新書)の根底にあるものは、テレビからインターネットまでのさまざまなメディア、あるいは各界の知識人が口にする"正義"のあり方が「どこかおかしい」という著者の気持ちだ。その収まりの悪さを、「違和感」という言葉に置き換えているわけである。
「違和感」の対象は、デモ、差別、教育、時代の閉塞感、近代化、平和、沖縄問題、震災と多岐にわたる。程度の差こそあれ、それらのすべてに、浅はかな正義感が絡みついていると分析するのだ。
注目すべきは、著者が現代社会を理解するためのキーワードとして「ものさしの不在」と「処方箋を焦る社会」の2点に注目していることである。まず「ものさしの不在」の例として挙げられているのは、東日本大震災と福島第一原発事故のこと。
たとえば震災当時、「千葉県のコスモ石油千葉製油所が爆発した際、有害物質が拡散された」というような誤情報が流された。また原発の水蒸気爆発後、政府の発表を信じていいのかと多くの人が混乱したことも記憶に新しい。
思想を専門とする筆者からみて、これらの事実から言えるのは「絶対に正しい基準がなくなった」ということです。言い換えれば、社会の善悪判断を最終的に担保する基準が壊れたということです。(7ページ「はじめに――ものさし不在の時代に」より)
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そしてもうひとつの「処方箋を焦る社会」。この根底にあるのは、思想家に対する著者の解釈だ。すなわち思想家は「時代を診る医者」であり、思いつきの意見との最大の違いは、専門的な知識の有無だというのである。ところがさまざまな常識が崩壊し、すべての価値判断を自己決定しなければならない現在の状況においては、きわめて短い時間軸で物事を決定しなければならず、また結果を求めたがる。
長期的な観点から時代状況を判断する余裕のない〈私〉たちは、しばしば政治・経済・外交問題について、場当たり的なスローガンに飛びつきます。自分自身がヤブ医者になってしまう場合があるのです。事件事故についてほとんど知識もないままに、善悪の判断を下し思いつきを大層な「意見」だと勘違いする。(10ページ「はじめに――ものさし不在の時代に」より)
たしかにそう考えていけば、世の中のあらゆる物事の本質を紐解いていくことができそうだ。だから、網野善彦、福澤諭吉、吉本隆明、高坂正堯、江藤淳―らの思想家たちが遺した考察を交えながら展開される話は、ひとつひとつが興味深い。が、タイミング的な意味も含め、なかでも特に響いたのが「平和論」だった。