米国とロシアはシリアのアレッポ県分割で合意か?
確かに、シリア民主軍は数千人の戦闘員を動員して、アイン・イーサー市以南の複数の村・農場を制圧した。だが、ラッカ市は依然として遠く、同市に近いダーイシュの戦略拠点であるタブカ市や第17師団基地(タブカ軍事基地)が攻略される気配もない。
また、有志連合の動きも鈍かった。2014年9月以降、シリア領内で空爆を続ける有志連合の空爆回数は1日3〜5回程度ときわめて限定的なもので、ダーイシュを追い詰めるにはまったくもって不十分だったが、「北ラッカ解放作戦」以降も、空爆回数に増加傾向は見られず、そこからラッカ市攻略の意図を読み取ることはできなかった。
そればかりか、「北ラッカ解放作戦」への過大評価はダーイシュを増長させた。ダーイシュはこの作戦に反攻するかのように、アレッポ県北西部のマーリア市を包囲、同地を戦略拠点としてきた「反体制派」を窮地に陥れたのである。
マンビジュ解放作戦
しかし、6月1日に米軍中央司令部(CENTCOM)が5月27日から6月1日までの有志連合の空爆の戦果を発表したことで、「北ラッカ解放作戦」の真意が見えてきた。
この戦果発表で明らかになったのは、有志連合の空爆がラッカ県北部でも、アレッポ県北西部でもなく、アレッポ県東部のマンビジュ市一帯に重点的に行われていたということだった。しかも、空爆回数は1日に10回以上に及んでいた。むろん、CENTCOMの発表はいわゆる「大本営発表」であり、額面通りに受け取ることはできない。だが、こうした数値を発表するという行為は、「北ラッカ解放作戦」が陽動作戦だったことを示していた。
CENTCOMの発表に先立って、シリア民主軍がマンビジュ市南東部のティシュリーン・ダム一帯で攻勢を再開したことは報じられていたが、6月に入ると、その戦果が徐々に明らかになっていった。
シリア民主軍は6月1日までに、同ダム一帯の20カ村と複数の農場をダーイシュから奪取し、これを空爆で支援する有志連合もトルコ国境に位置するダーイシュの拠点であるジャラーブルス市とマンビジュ市を結ぶ兵站路への空爆を敢行、その寸断を試みたのである。
そして、6月2日、マンビジュ市軍事評議会を名乗る武装集団が、シリア民主軍との連名で共同声明を発表し、「マンビジュ解放作戦」の開始を正式に宣言し、ここにシリア民主軍を主導するYPG、そしてそれを後援する米国の目標が明示された。
シリア軍とロシア軍の呼応
「マンビジュ解放作戦」は、「北ラッカ解放作戦」と同様の陽動作戦、ないしは単なるプロパガンダかもしれない。しかし、特筆すべきは、この攻勢に呼応するかのように、ロシア軍とシリア軍が各地で「反体制派」への攻撃を激化させた点である。
とりわけアレッポ県での攻撃は激しい。ロシア軍とシリア軍は6月1日、カースティールー街道一帯やアレッポ市東部への空爆を一気に激化させた。空爆は主に「反体制派」の支配地域に対して行われた、それだけでなくダーイシュが重要拠点とするバーブ市、マスカナ市にも及んだ。
両軍はまた、イドリブ県、ヒムス県、ダマスカス郊外県グータ地方で「反体制派」に対する攻撃を強め、またハマー県東部ではイラリヤー村とラッカ市を結ぶ街道でダーイシュに対する攻勢を再開した。