『海よりもまだ深く』是枝裕和監督に聞く
――じゃあ今回も楽しみですね。
でも正直言うと、この小さな話をカンヌに持っていくのはかなりチャレンジングなんだ。選んでもらえたことは誇りに思うが、ヨーロッパで家族の話といえば人種や移民の問題を背景にするのが大前提だったりするから。まず笑ってくれるかどうか。だってドリフなんて知らないし、仏壇の灰にも感情はわかないでしょ?
『歩いても 歩いても』はフランスで温かく受け入れてもらい、劇場に来てくれたお客さんも日本より多かった。でも、「バス停であの親子は握手をするけど、なぜハグしないのか」と聞かれた。「日本でハグはしない。親子ではたぶん握手すらしない」と言ったら、かなり驚かれた。だから今回の作品の親子関係のどういうところが冷たく見えて、どういうところが甘いと見えるのかは分からない。
――「なりたかった大人になれるわけじゃない」というのが映画のテーマでもある。「なりたかった大人」になれている感じはするか。
今はこの仕事が自分に合っていると思っていますが、なりたかった職業かといえばそうではなくて。ずれてここにたどり着いちゃった。
――もともと小説家を志望していたそうだが、これからチャレンジする可能性も?
ないないない。書いてみたことはあるが、自分に小説の才能はないと分かりました。先日、小説家の小川洋子さんと初めて対談したんだけど、小川さんは僕と同い年で、同じ大学の同じ学科なの。早稲田の第一文学部の文芸専修。そして海燕文学新人賞を取って芥川賞という、当時の僕が思い描いていた大人になった人です。僕の目の前に、自分がなりたかった大人がいた。
結果的には良かったけどね。それこそこの仕事は僕を大人にしたと思う。小説家という1人でやる仕事で食えるようになっていたら、もっと偏屈になっていた。もともとコミュニケーション能力はあまりないが、仕事で必要だからいろんな人と話せるようになった。今でも自分は嫌なやつだと思うが、この仕事で「社会化」されたんです。それはすごくよかった。
――良多みたいな男が実際に自分の周りにいたらとんでもなく迷惑だが、この映画では、どこか愛すべき人に思えてしまう。阿部さんの存在感なのか、脚本のうまさなのか。
阿部さんじゃないですかね。阿部さんと一緒に考えていたのは、「こんな人がそばにいたら嫌だ」と思われても、「もう見たくない」とは思われないようにしようということ。もう見たくないと思われたらダメだから、そのぎりぎりのところが重要だった。
彼が真木さんの膝を触る場面で、僕は脚本に「足首に触る」と書いた。そうしたら阿部さんはずっと「足首かぁ」と悩んでいた。「真木さんは小柄で、体の大きい僕が足首を触ったらかなり威圧的に見える......監督、足首じゃなくてもいいですか」と。膝のほうが笑えたね、たぶん。足首をつかんだら、キャラクター的に少し強く出たかもしれない。
――良多の入浴場面に驚いたが、あの旧式の風呂は実際に残っているのか。
残っていない。団地は空き室になると、まず風呂と水回りを新しくするから。
――それをわざわざ旧式のものにしたのは?
良多たちが泊まるとなったとき、母親が「じゃあ、お風呂沸かそう」って急に元気になる。リビングから風呂場に行って、ガスを点火するんだけど、そのときの「ガチャコン、ガチャコン」ってハンドルを回す音がほしかったの。
僕自身があの音を聞いて、母親が嬉しそうだと思った記憶があるわけ。久し振りに実家に帰って風呂に入る、つまり泊まっていくことを母親が喜んでいる。自分にとってはそういう音。だからどうしてもあの音を撮りたかった。