震災から5年、失われた子どもを捜し続ける人びと
高レベルの放射線を浴びながら、津波にさらわれた家族を追い求めた1800日
東日本大震災による津波で破壊された住宅が、福島県大熊町の帰宅困難区域に取り残されている。2月13日撮影(2016年 ロイター/Toru Hanai)
2011年3月11日の東日本大震災は、約1万6000人の命を奪った。2500人以上が今なお行方不明のままだ。津波による事故が起きた東京電力<9501.T>福島第1原子力発電所の近くに住んでいた人たちは、とりわけ深いトラウマを負った。
上野敬幸さん(43)は5年前、津波にさらわれた家族を捜すため、高レベルの放射線に自身をさらすことを一瞬たりとも躊躇(ちゅうちょ)しなかった。
上野さんの母親と娘の永吏可(えりか)さんの遺体は見つかった。それでも、上野さんは放射能や身を切るような寒さをものともせずに、福島原発近くの海岸で、父親と当時3歳だった息子の倖太郎(こうたろう)君の遺体を今も捜し続けている。
「子どもを守ることが一番の親の務め。子どもを守ることができなかった最低の親だと思っているので、そのことを子どもたちに謝らないといけない」と、上野さんは語る。
「永吏可は抱きしめて、謝ることができた。抱きしめながら、ごめんなさいと言うことができた。だけど倖太郎にはまだそのことができていない」
上野さんは現在、原発から北に22キロの場所で暮らしている。
原発から南に3キロの場所で生活していた木村紀夫さん(50)は当時、父親と妻、そして下の娘の汐凪(ゆうな)ちゃんを捜すためにこの場に残るか、母親と上の娘を放射能から遠ざけるために避難するかの選択を余儀なくされた。
「そのまま捜せない状況で残していくのは、もちろん後ろ髪を引かれる思いだった。戻ってきたときにはかなり時間が経っていたので、捜すことはその時点でかなり厳しい状況になっていた。生きて見つけるという意味では」と、木村さんは当時を振り返る。
福島原発事故は、家族で唯一見つかっていない汐凪ちゃんを捜す木村さんの努力を今なお妨げている。高レベルな放射線量のため、自宅のあった大熊町の半分は立ち入りが制限されている。