エジプト次期大統領の座に迫る危険な男
ムバラク政権崩壊直前に電話で大統領に直訴
ムーサのイスラエル嫌いは筋金入りだと、外務省で彼の報道官を4年間務めたナグイ・エルガトリフィは言う。ただ、自分が怒りを爆発させると国民がどんな反応を示すか、よくわきまえていることも確かだ。
今年4月に発表されたピュー・リサーチセンターの世論調査によれば、今ではエジプト国民の54%がイスラエルとの平和条約を破棄すべきだと考えており、和解の継続を望む声は36%にすぎない。ムーサを知る欧米の外交官の1人は、「彼の人気はイスラエル嫌いのアラブ民族主義者というイメージから来ている」と言う。
だがムーサ自身は、平和条約の破棄を主張していない。「要点は2つだ。まず、私は平和条約を破棄しない。また、この国の再建に当たって冒険主義的な手法には頼らない」と言う。
イスラエル嫌いという以外、ムーサに大した政治的実績はない。自分は外相時代にも政権への批判を繰り返してムバラク大統領に煙たがられ、「ムバラクと私の関係は緊張したものになっていた」。しかし1年前のテレビ出演ではムバラクを支持すると公言し、「大統領が再び立候補するのであれば、必ず彼に投票する」と言い切った。
今年1月に民衆による抗議デモが拡大したとき、ムーサはスイスのダボスで開かれていた世界経済フォーラムに参加していたが、日程を切り上げてカイロに戻った。アラブ連盟事務局のオフィスの窓から数十万人のデモを見ながら、彼はムバラクに電話したという。
「『大統領、これは革命です』と私は言った。そして武力による弾圧をしないよう、大統領に嘆願した。『彼らの声に耳を傾けるべきです。血が流されてはなりません』と訴えた」。ムバラクが軟禁状態に置かれている今、この話の真偽を確かめることは不可能だ。
複数の地元紙の報道によると、デモが始まって2週目にムーサはデモ隊に合流し、ムバラクの追放を求めないよう説得したという。だがムーサは、この情報は政敵が広めたもので、事実ではないという。
アメリカにとっては悪くない相手?
東欧でも89年の共産主義政権崩壊の後、巧みにイメージチェンジして民主的な選挙で当選した元共産党幹部は少なくない。革命後の社会を研究するカリフォルニア大学バークレー校の政治学者スティーブン・フィッシュは、ムーサも生き残るかもしれないとみる。
米ジョージ・ワシントン大学の政治学者マーク・リンチによれば、極端にアメリカ嫌いの候補より、元外相のムーサのほうがアメリカ政府にとっては好ましい。「欧米はムーサを許容するかもしれない」と彼は言う。
ムバラク政権を打倒した民衆はどうか。彼らはムーサを受け入れるのか。彼が当選したら、民主化は諦めるのか。
最近、記者がカイロの地下鉄に乗ったときのこと。路線地図を見ると駅名がかき消された駅が1つあった。乗客に尋ねてみると、その駅は「ムバラク」という名だったが、「殉教者」という意味の新しい駅名に変更されるという。
エジプトの人々は過去を水に流すことにしたのだろうか。そうであれば、ムーサも選挙に勝てるかもしれない。
[2011年8月24日号掲載]