最新記事

医学

免疫が切り拓く「がん治療」最前線

人体に備わる免疫機能に細胞レベルで働き掛け、注射でがん細胞を封じ込める「第4の治療法」が切り札に

2012年4月16日(月)13時54分
シャロン・べグリー(サイエンス担当) 井口景子、高木由美子、知久敏之(本誌記者)

最先端 患者の免疫細胞は厳重に安全管理された施設で培養され、体内に戻される Courtesy Medinet Co.Ltd.

 アリゾナ州に住む53歳のシェーリー・ベーカーは、本来なら何年も前に友人や家族に最期の別れを告げているはずだった。脇の下のしこりを、3人の医師に無害な嚢胞だと診断されてから1年以上たった05年、ベーカーは乳癌の告知を受けた。進行度は他の臓器にも転移しているステージ4。5年生存率は20%以下という厳しい状態だ。

 だが、彼女には死を受け入れる覚悟などできなかった。「私はボディービルが大好きで、健康管理と食事にも注意してきた」と、ベーカーは言う。「病気と闘うと心に決めた」

 未承認の新薬を試す臨床治験について調べたベーカーは、魅力的な選択肢を見つけた。「癌ワクチン」だ。

 癌ワクチンとは、患者の持つ免疫機能に働き掛けて癌細胞を封じ込めるための医薬品。06年5月、ベーカーはシアトルのワシントン大学を訪れ、上腕にワクチンを注射。その後5カ月間でさらに5回の接種を受けた。あれから5年以上たった今、ベーカーの体内に癌は見当たらない。彼女は絶体絶命のピンチを脱したのだ。

 ニクソン米大統領が国を挙げて癌の撲滅に挑む決意を宣言してから、昨年末で40年。癌を切除する「外科手術」、抗癌剤などの薬による「化学療法」、放射線で癌細胞を殺す「放射線治療」という3大療法の技術は格段に進歩したが、癌根絶の夢がかなったとはとても言えない。

 だが最近、数年前までほとんど誰も想像しなかった選択肢への注目が高まっている。患者の免疫機能を活用し、注射1本で癌に立ち向かう「免疫治療」だ。

「司令塔」が癌細胞への攻撃を指示

 免疫力を高めて癌に勝つ──どこかで聞いた話に思えるかもしれない。確かに栄養のある食品を食べるのも、コメディー番組を見て大笑いするのも広い意味では免疫力の強化につながる。

 だが最近注目の免疫治療は、それらとは次元が違う細胞レベルの最先端医療。ひとことで言えば、体内に侵入した異物を排除する免疫の働きを生かし、免疫細胞が癌を的確に攻撃できるようサポートするという発想だ。

 免疫治療には製薬会社が量産する医薬品である癌ワクチンから、患者自身の細胞を利用するテーラーメイドの「免疫細胞治療」まで多様なタイプがある。どの形態であれ、3大療法に比べて副作用が格段に少ないため、患者はQOL(生活の質)を保ちつつ癌との闘いを続けられる。

 ベーカーと同じ癌ワクチンの投与を受けた転移性乳癌患者21人の多くも、経過は順調。開発者であるワシントン大学の免疫学者メリー・ダイシスが目指すのは、免疫治療で「癌をコントロールし、撲滅する未来」だ。

 もちろん研究はまだ発展途上で、すべての人を救える魔法の万能薬には程遠い。日本では健康保険の適用外で、高額な医療費が掛かる点もネックとなる。

 それでも、この試みが癌との闘いに革命を起こす可能性を秘めているのは確かだ。製薬会社はこぞって癌ワクチン開発に乗り出し、アメリカでは前立腺癌などに効く癌ワクチンが米食品医薬品局(FDA)の認可を取得して広く使われ始めている。免疫細胞治療に関する臨床研究も進行中。この動きは、日本など各国にも広がっている。

「この10〜20年の間に免疫の仕組みが解明され、実用化が進んでいる」と、日本における免疫細胞治療の先駆けである瀬田クリニックグループの臨床研究センター長、神垣隆は言う。「免疫のメカニズムにのっとって癌と闘う時代になりつつある」

 まず基本的な免疫の仕組みを押さえよう。細胞の表面にはタンパク質でできた目印があり、血液中の白血球に含まれる免疫細胞はこの目印をチェックして攻撃対象か否かを判断している。細胞が癌化すると、表面に異常を示す目印(抗原)が出現。「司令塔」となる樹状細胞(免疫細胞の1つ)がそれを認識し、「戦闘部隊」のキラーT細胞に命じて癌細胞を攻撃させる。

 この段階で消滅する癌細胞も多いが、一部は監視の目をくぐり抜けて勢いを増し、やがて免疫細胞の手に負えないほど増殖する。そこで免疫細胞に人為的にパワーを与え、癌を抑え込もうというのが免疫治療だ。

 ベーカーに投与されたような医薬品タイプの癌ワクチンは、タンパク質やそのかけらであるペプチドで、抗原と同じ分子を人工的に合成したもの。人工合成された抗原が注射されると、樹状細胞がそれを「敵」と認識してキラーT細胞に攻撃を指示。キラーT細胞がその名のとおりベーカーの癌細胞を殺したのだ。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

中国国営メディア、アップルなど米企業を称賛 貿易摩

ビジネス

アングル:「ドル等価」目前のユーロ、急反転で市場混

ビジネス

ブルーバード遺伝子治療、FDAが規制措置の要否検討

ワールド

韓国中銀、15年ぶり2会合連続利下げ トランプ氏復
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老けない食べ方の科学
特集:老けない食べ方の科学
2024年12月 3日号(11/26発売)

脳と体の若さを保ち、健康寿命を延ばす──最新研究に学ぶ「最強の食事法」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 2
    リュックサックが更年期に大きな効果あり...軍隊式トレーニング「ラッキング」とは何か?
  • 3
    黒煙が夜空にとめどなく...ロシアのミサイル工場がウクライナ無人機攻撃の標的に 「巨大な炎」が撮影される
  • 4
    寿命が5年延びる「運動量」に研究者が言及...40歳か…
  • 5
    「健康食材」サーモンがさほど健康的ではない可能性.…
  • 6
    「健康寿命」を2歳伸ばす...日本生命が7万人の全役員…
  • 7
    「時間制限食(TRE)」で脂肪はラクに落ちる...血糖…
  • 8
    バルト海の海底ケーブル切断は中国船の破壊工作か
  • 9
    未婚化・少子化の裏で進行する、「持てる者」と「持…
  • 10
    谷間が丸出し、下は穿かず? 母になったヘイリー・ビ…
  • 1
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 2
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 3
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対する中国人と日本人の反応が違う
  • 4
    寿命が5年延びる「運動量」に研究者が言及...40歳か…
  • 5
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 6
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたま…
  • 7
    「ダイエット成功」3つの戦略...「食事内容」ではな…
  • 8
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱…
  • 9
    ロシア西部「弾薬庫」への攻撃で起きたのは、戦争が…
  • 10
    リュックサックが更年期に大きな効果あり...軍隊式ト…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 7
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 8
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 9
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
  • 10
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中