世界を挑発する派手好きディーバ
軽薄そうに見えても、ネトレプコほどタフな人間はいない。それにオペラの世界は厳しい。02年に母親が死んだときはツアー中で葬儀に出られなかった。
「彼女は学生時代、生活のためにマリインスキーのトイレ掃除をしていたんだ」と、ニキーチンが言う。「本当に掃除したんだ。ブラシで。自分の手で......まさにシンデレラさ」
ネトレプコは舌を出す。「やめて、そんな話。私はごく普通の人間よ。家ではオペラのことなんか考えない。まったく別のことを考える。靴! ドレス!高いやつ。シルエットがきれいで布地が美しいやつ」
「不格好な安物のドレスを売ってる店を回るなんて、『トスカ』で耐えられない。『トスカ』でいっぱいになる!」
ネトレプコが我慢ならないものといったら「トスカ」。といってもプッチーニのオペラではない。翻訳不可能に近いロシア語で、作家のウラジーミル・ナボコフによれば「魂の鈍い痛み、対象のない憧れ、病的な切望、倦怠、退屈」という意味だ。
帰り際、叫び声が上がった。バザールで聞きそうな陽気な声。ネトレプコだ。知り合いでも見つけたのか?
いや、人違いらしい。彼女は向きを変え、青い湖に向かってスキップで丘を降りていく。ほとんど聞こえないくらいの声でハミングしながら。
[2011年11月 2日号掲載]