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パキスタン「核開発の父」カーン博士の独白
国際社会の「誤解」、パキスタン指導者たちへの失望──短期間でゼロから核開発を成功させた科学者が今だから語る怒りとジレンマ
核への道 98年に西部チャガイでの核実験成功を祝して集まった政府要人たち。当時のナワズ・シャリフ首相(前列中央)やカーン(左から4人目)の姿も Reuters
パキスタンの核開発計画はずっと、欧米諸国の不当なプロパガンダやいわれなき非難の標的になってきた。はっきり言わせてもらおう。パキスタンが核開発に走ったのは、インドが74年5月に核実験を行ったからだ。それを聞いて私は急きょ祖国へ戻り、核による抑止力を構築して、インドの「核による脅迫」から守るために働いた。
ヨーロッパで15年を過ごし、ウラン濃縮の技術を身に付けた私は、75年12月に帰国し、当時のズルフィカル・アリ・ブット首相から核兵器の開発を委ねられた。84年12月10日には、当時のモハマド・ジアウル・ハク大統領に、命令があればいつでも核実験を行えると報告している。
80年代後半までには核技術の信頼性も向上し、90年代前半には核弾頭の発射システムも完成した。自転車のチェーンさえ作れなかった国が、欧米諸国の妨害をものともせず、短期間で核ミサイルの保有国になれた。まさに偉業である。
わが国の核開発の現状について、私はほとんど何も知らない。パキスタンの主要な核開発施設であるカフタの原子力研究所を辞めてから、もう10年になる。
これは私の推測にすぎないが、今は核攻撃システムの設計を完成させ、巡航ミサイルに搭載できるよう小型化する作業に注力している段階だろう。先制攻撃を受けても反撃できるだけの弾頭数を確保する必要もある。
核開発資金をめぐる大きな誤解
忘れてならないのは、核兵器を保有する国が敵に侵略され、あるいは占領され、あるいは領土を奪われた例はないという事実だ。
イラクやリビアに核兵器があったら、あんなふうに破壊されることはなかっただろう。パキスタンが71年以前に核兵器を保有していたら、(第3次印パ戦争での)不名誉な敗北の後に国土の半分(現在のバングラデシュ)を失うこともなかったはずだ。
パキスタンが核開発に費やした金額について、国際社会の理解は完全に間違っている。スタート時の予算は年間1000万ドルにすぎず、最も多い時期でも年間2000万ドルだった(スタッフの人件費や医療費、住宅費、光熱費から物資の調達費まで、すべて含めた金額である)。これでも近代的な戦闘機1機の値段の半分だ。
こうした事実について無知で、しばしば外国に雇われているパキスタン人たちは、わが国が核開発計画に法外な金額を費やしていると吹聴しているが、まったく根も葉もない主張だ。
インドもパキスタンも、冷戦時代に戦争を防いだ「相互確証破壊」の原理を理解している。どちらが先に核兵器を使おうと、結局は両方とも破滅を避けられない。だから軍事的な小競り合いはあっても、両国間に核戦争はあり得ない。
核抑止力を得ても変わらない現実
私たちは祖国パキスタンが自信を取り戻し、敵国の攻撃に対する抑止力を持つために核兵器を開発した。そうして国の主権が確保された以上、次は国民の生活水準を引き上げることに注力すべきだと、私は歴代の政権に提言してきた。
残念ながら、その後の無能で無知な支配者たちは、そうした国民の利益のための努力を怠ってきた。国民の暮らしは、経済制裁を受けていた20年前や40年前に比べても、ずっと苦しくなっている。それを思うと、私の心は痛む。
核兵器はわが国に鉄壁の守りをもたらした。インドとの対立が解消されるまで、この抑止力を維持していくしかない。
そしてこの抑止力は、両国の新たな平和の時代へとつながっていくものだ。かつて敵対していたドイツとフランスが今は平和的に共存しているように、パキスタンとインドが仲良く共存できる日を、この目で見たいと願っている。
[2011年5月25日号掲載]