中東和平ネタニヤフの見えない真意
イスラエルは05年、パレスチナ自治区ガザのユダヤ人入植地を撤去したが、ネタニヤフはこれにも反対した。09年2月のイスラエル総選挙の直前には、同じくパレスチナ自治区のヨルダン川西岸にある入植地は1つも撤去しないとテレビ番組で国民に誓った。
そんなネタニヤフが譲歩の用意があると語るとは、本気なのか。ネタニヤフが詳細を口にしないのは妥協する気がないことの表れだと誤解してはならないと、あるイスラエル政府高官は言う。事前に譲歩の中身を明かすのは賢い交渉戦略ではないからだ。
もちろんイスラエルの指導者にも考えを変える権利はある。エフド・オルメルト前首相もアリエル・シャロン元首相もネタニヤフに劣らないタカ派だった。しかし首相就任後、シャロンはガザからの撤退を決断し、オルメルトはヨルダン川西岸の9割以上を手放す必要があると発言した。
態度の変化の背景には、現状のままでは、いずれイスラエルではアラブ系市民の人口がユダヤ系人口を追い抜くという認識がある。そうなれば、イスラエルはユダヤ人国家という大義、あるいは民主主義国家という立場のどちらかを捨てることを迫られる。
一方、ネタニヤフはイスラエルが人口統計上の脅威にさらされているとは考えず、「そんな話は単なるこけおどしだと見なしている」と、06〜08年に首席補佐役を務めたナフタリ・ベネットは言う。
ネタニヤフはパレスチナとの「2国家共存」のための方法を語ることもない。繰り返し口にするのは、00年に始まった第2次インティファーダ(反イスラエル闘争)に伴うテロ攻撃と、07年にパレスチナのイスラム原理主義組織ハマスがガザを制圧した事実が、強硬派としての自らの立場を正当化しているという話だ。
「第1次ネタニヤフ政権が終わった後に起きた一連の出来事によって彼の信条はさらに強くなった」と、ベネットは指摘する。
無視できないタカ派の父親からの影響
親族という要素もある。シャロンとオルメルトが中道路線に舵を切ったのは、身近にいる家族の影響が大きかった。シャロンの場合は国会議員だった息子のオムリ、オルメルトの場合は芸術家でハト派の妻アリザだ。
ネタニヤフに最も大きな影響を与え続けているのは、生粋のタカ派である父親ベンツィオンだと、知人らは証言する。大きな決断を下す前には、必ず父親に相談するとネタニヤフ自身も語っている。
「ビビ(ネタニヤフの愛称)の考えを判断するときは彼の父親の意見をよく聞かなければならない」と、2人と一緒に過ごしたことがあるメゲドは言う。「ビビは反逆児ではない。父親との絆を断ち切れないし、ベンツィオンという重圧のせいで身動きが取れない」
ベンツィオンは、ユダヤ人国家建設を求めて19世紀末に起こったシオニズム運動の一派で、領土問題に関してアラブ人への譲歩を一切認めない修正主義シオニズムの重鎮だった。昨年、99歳の誕生日を迎えた直後、イスラエル紙マーリブが行ったインタビューではこう語っている。「可能なら、われわれはイスラエルにおいて帰属が争われている領土のすべてを制圧すべきだ。長い戦争になろうと、制圧して支配すべきだ」
父子はどんな関係なのか。メゲドの答えはこうだ。「2人とも非常に冷たい人間だ。彼らの間に温かい感情はないが、尊敬の念はある。息子に対する影響力がありありと伝わってくる」
アッバス議長との意外な共通点
それでも各国指導者や著名なイスラエル人ジャーナリストなど、一部の有力者はネタニヤフの変化は本物だと信じている。彼らとの会話で、ネタニヤフは長引く中東問題を解決し、より大きな脅威に集中したいと語っている。すなわち、イランの核開発疑惑である。