鎖国と開国のはざまで
出島の医師と初代米総領事の通訳が書きとめた変革期の姿
『ケンペルの日本 エンゲルベルト・ケンペルが見た徳川文化』(Kaempfer's Japan: Tokugawa Culture Observed)は綱吉将軍の時代を描く
エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)が来日した1690年、すでに日本の鎖国は50年以上も続いていた。ごく少数のオランダ人だけが入国を許されていたが、彼らとて長崎湾の出島で幽閉同然の日々を送っていた。
ドイツ人のケンペルは、医師として2年間、出島に暮らした。世界各地を旅した学者でもあるケンペルは、できるかぎり多くを学ぼうと心に決めていた。オランダ人たちが年に一度、将軍に拝謁するため、江戸にのぼるときが、日本見物のチャンスだった。
江戸まで往復3カ月、道が平らで水はけもよいことに、ケンペルは驚いた。子供たちは道を掃き清め、薪にする枝を拾い、馬糞や人糞を集めて肥料にしていた。
ケンペルによれば、侍はロシアの騎兵より勇猛にみえた。家屋は山羊小屋のよう。日本人は「無神論ではなく、信仰の対象こそ異なるが、たいてい(自分たちより)敬虔」なように思えた。
道中、一行はミカドの住む京の都に立ち寄っている。ケンペルの目に、ミカドはローマ法王のような存在と映ったようだ。ヨーロッパの混沌とした都市と違い、碁盤の目のように整然とした街並みにも感銘を受けている。
江戸では、一行は外出を禁じられ、ヨーロッパの言葉を書いた紙を捨てないよう命じられた。ようやく拝謁した将軍・徳川綱吉は、ケンペルには非常に教養ある人物に思えた。オランダ商館長はまるで「ロブスターのように」はって進み出て、床に頭をすりつけ、後ずさりしなければならなかった。
それから奥の間に案内された。そこでは御簾越しに、30人ほどの貴婦人たちがこちらを見ていた。「将軍と奥方は私たちの右手にある御簾の奥にいた。2度、御簾の間から奥方の顔が見えた。やや浅黒いが丸みを帯びた美しい顔で、ヨーロッパ人を思わせる黒い瞳が生き生きと輝いていた」
通訳を介して、将軍は一行に名前と年齢を尋ね、ケンペルには西洋医学の現状について質問した。それからみんなに、オランダの作法を実演させた。オランダ流のあいさつ、ほめ方、酔っぱらいのふりや抱き合うふり、などだ。
自分が日本人に興味をもっているように、将軍もオランダ人に興味をもっているのだと、ケンペルは気づいた。歌い、踊り、さまざまな「サル芝居」をしてみせた。後で「私たちがオランダ人としてはかつてない厚遇を受けたことを、役人から知らされた」。
「不適切」な部分は削除
ケンペルが著した『日本誌』は彼の死後、1727年にイギリスで出版された。ケンペルの「異教の国」に対する賛辞を削り、逆に批判的な部分を加筆。ケンペルに同行した日本人が、金を払って美しい娼婦の胸に触れたくだりも削除された。
『日本誌』は、ジョナサン・スウィフトに『ガリバー旅行記』の着想を与え、長年、日本に関する重要な史料となった。ある19世紀の日本学者は、ケンペルの本を見れば日本のことがすべてわかると絶賛している。
『ヒュースケン日本日記1855~1861』(邦訳・岩波文庫)を書いたオランダ人、ヘンリー・ヒュースケン(1832~1861)が見た日本の政情は、はるかに不安定だった。1856年、23歳のヒュースケンは、アメリカの初代総領事タウンゼント・ハリスの書記兼通訳として来日した。他国に先んじて日本での地歩を固め、通商条約を締結するのがハリスの使命だったが、日本人は外国人を断固排除しようとした。結局、2人は伊豆・下田の寺に住むことになった。警護という名目で日本人の番人がつけられたが、ハリスは追い払っている。
年長で堅物のハリスと違い、若いヒュースケンは陽気な男で、馬を愛し、女を愛した。ハリスとともに下田の藩主と食事したときは、席に女性がいないことにがっかりしている(藩主の娘たちは人質として江戸にいた)。
最初のうち、町の女性たちはヒュースケンが近づくと逃げた。だがしだいに慣れて、ときには黒く美しい二つの瞳を見つめる機会もあったらしい。