「水着に抵抗はなかった」、元ミス・アメリカが現代のミスコンに思うこと
I Was Miss America
1970年のミス・アメリカに選ばれたエルドレッド(左) COURTESY OF PAM ELDRED
<ミス・コンテストが最も注目を浴びていた時代にミス・アメリカになり、社会に発言する機会を持てたのは素晴らしい経験だった>
半世紀前はミスコン花盛りの時代だった。「ミス・アメリカ」のコンテストが始まると、みんなテレビにかじりついて見ていた。
1968年、私は20歳でミス・デトロイトのコンテストに参加した。ずっとバレエをやってきたのに脚を痛めてしまい、何か別の目標を探していたから。学習障害のある妹がいて、何かと出費がかさむのを知っていたので、お金も欲しかった。優勝すれば奨学金をもらえると聞いていた。
それで私は勝ち上がり、優勝した。続いてミス・ミシガン州のコンテストにも出たけれど2位止まり。でも翌69年には優勝できた。
その年の9月、私はミシガン州を代表してミス・アメリカの座に挑んだ。4種類の審査があり、水着が25%、才能が50%、イブニングドレスと質疑応答がそれぞれ25%の配点だった。才能のウエートが重いのは、「テレビ映え」が求められたからだ。
その年も、会場の外ではミスコン反対のデモがあった。でも、バレエをやっていた私は水着に抵抗を感じなかった。体の線をチェックされるのには慣れていた。
ミスコンのおかげで発言の場を持てた
今なら私も水着にはならないと思う。水着が嫌で参加しなかった人はたくさんいる。でも2018年に水着審査が廃止されたとき、失望した人がいるのも事実。水着になるのは体の健康美を見せるためだと、彼女たちは信じていた。
あの頃、女性には今ほど発言の場がなかった。でも私はミスコンのおかげで発言の場をつかみ取れた。
最後の質疑応答で、審査員が私に投げた質問はこうだった。「姉妹がいるようですが、妹さんにはこれからの時代の女性について、どんなアドバイスをしますか?」
私はこう答えた。あいにく妹は脳に障害を抱えているので時代をつくる女性たちの仲間にはなれないと思いますが、若い女性たちには、どうか自分らしく生きてほしいと言いたいです──。そうしたら、みんな驚いたようで、大変な反響があった。ミス・アメリカとしての活動中も、学習障害について発言する機会がたくさんできた。
70年のミス・アメリカに選ばれて以来、私は全米各地を毎日のように回った。それが私の仕事だった。でも、モノ扱いされていると感じたことはない。水着の撮影は一度もなく、旅の間はいつも誰かが大事に付き添ってくれた。