「ねえ、ラブホいかへん?」 家出少女に声をかけられた牧師は彼女をどうしたか
雑踏の中へ逃げていった少女
夜行バスの時間は迫っていた。呼ぶべき同僚を誤ったのか? いや、彼が言うことももっともだ。彼女が大人だったら、彼も教会に宿泊させることに同意したかもしれない。だが中学生である。ここは近代以前のキリスト教世界ではない。牧師の独断で未成年を、誰にも告げず教会に泊めることなどできない。やはり最初から警察を呼ぶべきだったのか?(緊急時に24時間体制で対応する児童相談所の窓口があることを、当時のわたしたちは知らなかった)
そのあいだも彼女は少しずつ後ずさりを続けた。やがて、わたしたちが追いかけても逃げきれるほどに遠ざかると、彼女は繁華街の雑踏へとあっという間に姿を消した。バスは到着し、同僚に見送られながら、わたしはステップに足をかけた。
いったいどうすればよかったのか
なにもできなかった――夜行バスに揺られながらシートの背もたれを倒し、わたしは目をつむる。まぶたのうらに彼女の、幼さの残る屈託のない笑顔が浮かぶ。同時にわたしを突き刺すように見る、あの二つの野生の眼が。弾むように話す声と、息を殺す沈黙。わたしの膝の上で安心して眠るまぶたと、警戒に光りつつ後ずさる細い眼。
「なにもできないくせに、なぜ、わたしにやさしくした?」
「うらぎり、ぜつぼうさせるために、わたしをしんらいさせ、きぼうをもたせたのか?」
わたしは彼女の教会を壊してしまった
彼女は幼い頃教会に通ったと言っていた、心から懐かしそうに。今は大嫌いになった親に、連れられて通ったのだろう。だが、少なくともその思い出を、彼女は楽しそうに語ったのだ。彼女にとって記憶のなかの教会は楽しく、なにより安心できる場所だったのである。だからわたしが牧師だと分かったとたん、彼女はわたしを客の男ではなく、頼れる大人として安心し信頼した。彼女はわたしに、思い出の教会を見たのだ。
わたしの膝の上で寝ていた彼女は中学生ではなく、まだ教会に通っていた頃の、幼い女の子だったのだ。親を憎み、家での居場所を失い、男性客を求めて夜の街をさまようようになる前の、あの幼い頃に通った教会を、彼女はわたしの膝に感じていたのだ。
だがわたしは、そんな彼女にとっての教会を破壊した。牧師と牧師が彼女を押しつけあう醜態をさらしたのである。それだけはやってはいけないことだった。彼女が野生の眼を光らせたとき、教会も彼女の居場所ではなくなった。彼女は今後二度と教会には近寄らないだろう。彼女は二度と牧師を信用しないだろう。
別の答えを探し続けて
責任もとれないのに、わたしはその場だけのいい格好をしようとした。そして責任の所在という重い問題が頭をもたげるや、保身に走ろうとした。それでも、わたしはずるずると考え続けている。「責任をとれないことはやらない」でいいのだろうかと、往生際の悪い悩みを悩み続けている。もう答えは出たではないか。無責任の結果がこのざまである。
それにもかかわらず、わたしは未だに別の答えを探し続けているのだ。彼女を拒絶することは、「責任をとれないことはやらない」という意味では正しい。ただし、「責任をとれないことはやらない」という意味で"のみ"正しい。言っておくが、わたしはあの少女とかかわりを持ったことを正当化したいのではない。わたしが彼女と出遭ってしまったとき、そこには、後先を考えずに応答せずにはおれないなにかがあった。決してうまくやり過ごしてはならない、かかわりの意志へとわたしを衝き動かすなにかが存在したのである。