「ねえ、ラブホいかへん?」 家出少女に声をかけられた牧師は彼女をどうしたか
人との出遭いは、交通事故のようなもの
わたしの神学部時代の恩師が、かつてこんなことを言った。
「人との出遭いは、交通事故のようなものだよ」
交通事故は予測可能なら起こらないものだ。起こって欲しくもない。それは唐突に、自分の思いなし一切を突き破って起こる。事故を起こしたら、救急車や警察を呼ぶなどしなければならない。放置して逃げたら、それは犯罪である。事故に巻き込まれること。それは自分の意志とは無関係に、その事故にかかわらざるをえなくなることである。わたしは彼女と交通事故を起こしたのかもしれない。その場を立ち去ることは、彼女を轢き逃げするに等しいことだ。ただ、わたしは現場での対処を過った。それも、彼女に対して致命的に。
わたしは予期せず遭遇する他人に対して、どのていど責任をとれるのだろうか。そこで語られる責任とはなんだろうか。わたしたちは、究極的には自分の人生を生きるしかない。自分の人生の責任を他人に負ってもらうことはできない。また、他人の人生におけるあれこれの結果を、その人の代わりにわたしが出してやることもできない。
他人の人生の結果までは背負えないが...
あの少女がどんな人生をその後歩んでいるのかは分からない。だが、もしもあのとき「適切に」かかわることができたとしても、それは彼女の人生を、彼女自身の代わりに善くしてやったことにはならない。わたしとのかかわりを善いか悪いか判断し、行動を起こすのは、けっきょくのところ彼女自身なのだ。彼女の人生を生きるのは彼女自身だからである。
もしもわたしがあのときバスをキャンセルして彼女とかかわり続けたとしても、それでも、わたしは彼女の人生に現われ出るもろもろの結果について、責任をとることなどできなかっただろう。
ただ、他人に対して責任を負いきれないということは、他人に対して無責任であってもよいこととイコールではない。他人に対してあらゆる意味で責任をとれないということになれば、そもそも責任という言葉が無意味になってしまう。他人と約束を交わすこともできなくなる。わたしはたしかに、他人の人生の結果までは背負えないという意味において、他人に対して無責任にかかわっている。だが、いちど他人とかかわったなら、その人のことが頭の片隅にこびりつき続けるだろう。
最後の責任は神がとってくれる
わたしたちの業界では「○○さんのことを覚えて祈る」という。それは「○○さんの状態が改善しますように」と言葉に出して祈ることだけではない。忘れようとしても忘れられず、いつまでも頭にこびりついており、「あの後、あの人どうなったかな」と気になり続けている、そのこと自体が祈りなのである。
この少女の責任を、あなたはとれるのですか。その問いに当時のわたしはひるんだ。だが今なら、こう答えるかもしれない。
そうです、責任はとりきれません。でも、この人にかかわってみようと思います。わたしは自分のできる限りのことをします。最後の責任は神がとってくれますから。
沼田和也(ぬまた・かずや)
牧師
1972年生まれ。兵庫県神戸市出身。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。