「将来のために今は我慢」は間違い!? 哲学者が説く「本当に幸せな人生」のあり方とは
自分でもそう信じて疑わず、成功者として生きられると信じて、今の喜びを犠牲にしてまで一心不乱に勉強しても、その努力が報われるとは限りません。行きたいと思っていた大学に入れなかったり、大学に入ったのにコロナ禍で講義を満足に受けられなかったりというような思いがけない出来事に遭遇し、輝かしい本番の人生などどこにもなかったと気づくことがあります。
たとえ首尾よく希望する大学に入れたとしても、受験勉強の苦労は、その後の人生で経験する苦労と比べれば、大したものではありません。
「終活」に励む人は今を生きる喜びを犠牲にしている
この先何があろうと、今が本番です。先の人生のために今を楽しまない生き方を、私は好ましいとは思いません。「終活」をする人も同様です。今楽しめるのに、最期のために今生きる喜びを犠牲にしているように私には思えるのです。
誰もが死を免れることはできませんが、いつどこでどんなふうに死ぬのかは自分で決めることはできません。家族と暮らしていても、一人で死ぬことになるかもしれませんし、看取られて死ねるとしても、死ぬのは自分であって、他の人が一緒に死んでくれるわけではありません。
未来は「未だ来ていない」というより、「ない」のです。未来があるという保証はどこにもありません。少なくとも、自分が思い描いている人生になるという保証はまったくありません。
そうであれば、徒にこれから起こることを恐れるよりも、今できることに専念する。これが「今を生きる」ということの意味です。
「未来は悪い」と考える人は今を改善する努力をしない
これから先を考えて恐れたり、不安になったりするのにはわけがあります。「孤独死するかもしれない」という恐れに囚われている人は少なくありません。家族に頼らず、死んでからの諸々のことは友人に任せようという人もいますが、煩瑣(はんさ)な手続きを引き受けてくれるような友人がいなければどうするのかという問題があります。そのようなこれから起こるであろうこと、死んでからのことを思うと不安でならない気持ちはわかります。
しかし、「不安や恐れに囚われているので、前向きに生きられない」のではありません。むしろ、「前向きに生きないために、孤独死するかもしれないというような不安に囚われている」と考えた方が、不安に囚われる真実に近づけます。