「汚部屋そだちの東大生」女性作者の壮絶半生 母親の影響を抜け出すまでの日々
「自分の顔って毎日見てるから変化に気づけないじゃないですか? それと一緒で、あまりに自然に汚れていったから、家が汚部屋になっているってなかなか気づかなかったんですよね」
ガスの検針で職員が家に来たときなどは、職員に見える手前の場所だけを片付けた。片付けると言っても、例えば玄関に散らかる靴をゴミ袋に入れて奥の部屋に押し込むだけだ。
「ガスの検針が終わったら、荷物は戻すつもりなんです。でも結局は片付けず、そのまま放置されました。そうして気づいたら奥の部屋は天井近くまでゴミがたまってしまい使えなくなってしまいました。そしてゴミはあふれ、家中に汚れが広がっていきました」
ゴミは積み重なっていき、床はとっくに見えなくなった。置いてあった小さなテーブルとゴミの高さが同じになって、テーブルとしては使えなくなった。そのうちその上にもゴミが置かれまったく見えなくなった。
「テーブルがあったと思われる場所に手を突っ込んだら、指先にテーブルの表面が当たる......というような感じでした。
仕方ないのでダンボールを拾ってきて、組み立てたり、布団を折り曲げたりしたモノの上で勉強したり、絵を描いたりしてました。もちろんボコボコしていてやりにくいのもありますが、すべて母に丸見えでプライバシーがないのが嫌でした」
ハミ山さんが中学時代から徐々に汚れていった部屋だが、高校に入学した頃には、完全に汚部屋、ゴミ屋敷になっていた。
物がなくなり、クーラーやトイレが壊れた
汚部屋では物がよくなくなった。ボールペンなど小さいものがなくなるのは当たり前だ。かつては自炊していたが、いつの間にか炊飯器がどこかに行方不明になってしまったので自炊はしなくなった。
クーラーも壊れてしまったので、部屋の気温は外と変わらなかった。冬場は寒さを防ぐために部屋の中でもずっとダウンジャケットを着ていなければならなかった。
夏場は暑さをしのぐために扇風機を購入したが、扇風機すらそのうち埋もれて行方不明になった。行方不明になったら探さずに、新たに購入した。最終的には4~5台の扇風機が埋まっていたという。
トイレも壊れて水が流れなくなっていた。用を足すたびに、バケツでタンクに水を注ぎ込んで流していた。母親は無精がって流さないこともあり、ハミ山さんは辟易とした。
風呂も給湯器が壊れお湯が出なくなった。仕方なく、銭湯に通っていた。
もちろん修理業者を呼んで直したり、または買い直したりしたほうが、精神的にも経済的にもいいに決まっている。だが汚部屋だから業者は呼べなかった。
だから何年もそのままの状態で過ごした。
「洗濯機はあって、洗濯して適当な場所に干していました。でも干した服も、そのうちゴミに埋もれてなくなっていました。実質使い捨てでした。だから下着や靴下は3枚数百円で買えるような安いものが多かったです。軽く掘り起こすと、すごい枚数のパンツが出てきて
『こんなにいたのね!!』
という気持ちになりました。
たまに母から『片付けて』と言われることはあったのですが、それは整理整頓してという意味で『物を捨てて』という意味ではなかったんですね。例えば10年前の新聞でも捨てようとしたら『あとで読もうと思っていた』とか言われてしまいます」
勝手に捨ててもバレないけれど、明確に量が減ったらさすがに気づいて怒り出すかもしれない。