「自分らしさ」は探さない──「ありのまま」「あなたらしさ」の落とし穴
磯野:生きるために不可欠な営みであるはずの「食べる」という行為が、「栄養素」などの一元的な情報として扱われるようになる。場合によっては罪悪感のもとになり、その罪悪感に応えるかのように、「ギルトフリー食品」と呼ばれる、太らないおやつまで登場してくる。
数字と付き合わずに生きていくのは非現実的ですが、数字そのものが持つ力に自覚的であるということは、言い過ぎても言い足りないことはないと思います。
数字を用いた管理の視点が人々の生活に入り込むと、そこでは何が起こるのでしょう。(中略)数字の管理下に置かれたモノ/者たちは、それらがもともと埋め込まれていた文脈、すなわち具体的な世界から切り離されてしまいます。するとその影響を受けた人々の生活スタイルや考え方までもが変化することがあるのです。これが数字の持つ脱文脈化の力、言い換えると、世界の彩りを消し去る力です。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)
自分の身体が他者の声で満たされないために
磯野:文化人類学を専門とする私は心を「現れ」ととらえています。世界との接地面に「心」が現れてくる、と見る。
摂食障害の話を聞くと、過去の苦しさと未来の不安が団子状になって覆いかぶさっている感じがする。その未来と過去の断片で押しつぶされて「今」に接地できていない感じがある。
だから「いかに接触するか」「いかに世界とかかわるか」だと思います。
人は生活上、「母」「教員」「学生」といった、いろんな「役割」をもっていて、その役割に応じたつながり方や生き方をしています。これを「タグ(札)付けする関係」と呼びます。
社会を営む上で、こうした「タグ付け」の関係は必要です。ただ、人間関係が「タグ付け」の関係だけで満たされてしまうと、自分自身まで「タグ」で価値づけ、「こういう"教員"であるべきだ」など決め打ちされた役割に縛られかねない。タグの価値だけでつながった人間関係は、そのタグの価値が下がれば終わりです。
では、私たちの存在を「軌跡」(ライン)でとらえるとどうでしょう?
ここでいう「ライン」とは、イギリスの文化人類学者、ティム・インゴルドが、著書「ラインズ 線の文化史」で描き出した概念です。それを人間関係に置き換えて、私たちの人生は、これまでの経験や出会ってきた人々でかたちづくられているととらえ直せば、たどってきた道は、人それぞれに当然異なり、その軌跡こそが「自分らしさ」だと考えられるのではないでしょうか。
自分が他者に呼びかけられることで始まるという事実を認めつつ、でも自分の身体が他者の声で満たされないようにするには一体どうしたらいいでしょうか。あなたが描いてきたライン、そしてこれから描かれるであろうラインの行方を、ワクワクしながら面白がり、そしてあなたとともにラインを描いていこうとしてくれる他者に出会うこと。言い換えると、タグ付けする関係でなく、「踏み跡を刻む関係」を作り上げてくれる他者に出会い続けていくことです。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)