「自分らしさ」は探さない──「ありのまま」「あなたらしさ」の落とし穴
磯野:ちょうど今日、大学で講義をしたんですが、受講していた学生からこんな話を聞きました。
SNSのストーリーに脱毛の広告がやたらと流れてくる。「元カノはすべすべだったんだけど」「20代女子からの予約殺到中」といった内容だ、と。それを聞いた学生の一人が「脱毛していない私は汚いんだろうかと思う」と話していたのが印象的でした。
この場合、「承認」を受けたいというより、「普通」から外れないように、と考えている節がある。
売る側としては、脱毛・美白・アンチエイジングをしてほしい。だから「何かが欠けていませんか」とメッセージを流します。周りも脱毛した、なんて話が実際出てきたら、受け手は「自分は平均より下なんじゃないか」「普通から外れているんじゃないか」と感じるんだと思います。
劣等感・逸脱感が作り出され、「逸脱しない自分」になるための「コンプレックス商材」が売られている。SNSなど個人にカスタマイズされたテクノロジーが発信する広告などの呼び声に無批判に取り込まれてしまうと、自分は何がしたくて、何がしたくないのかを見極めることが難しくなってします。
恥じらいや性的な興奮は、自分の意思とは関係なく生まれてくるどうにもあらがえないもののように思えます。ですが、そんな気持ちの中にすら、それぞれの文化が持つ価値観が滑り込むのです。(中略)気持ちを自分だけのものだと思いすぎると、私たちをとりまく世界が、私たちの気持ちを作っているという事実に気づきにくくなり、逃げるという選択肢がみえにくくなります。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)
数字はときに、世界の彩りを消し去る
──摂食障害の人は、自身の体重や体脂肪、カロリーや炭水化物の量など、「数字」にとてもこだわりますね。
磯野:私も摂食障害の当事者にインタビューしているときに「数字にとらわれているな」と感じました。そういう面は確かにあると思います。
ただ、それまで摂食障害の当事者がカロリーや体重など数字にこだわりをもつのは、よく見られる「症状」だと認識されるにとどまり、数字へのこだわり自体が分析対象にはなっていなかった。数字そのものが、いったいどういう意味を持ち、何を引き起こすのかーー摂食障害研究では、この視点が見過ごされていたと言っていいと思います。
この間、『ダイエット幻想』を読んでくれたという高校生がTwitterで「7200kcalのカロリー貯金をしたい」とつぶやいていました。
食べ物を、「数字」に変換し、収支を計算する。こういう考え方が今の社会で一般的なのは、疫学データで集団の健康を分析する「予防医学」が普及し、健康も「自己管理」できる、という考えの影響が大きいと思います。
「○○を食べている人は病気になりやすい・なりにくい」「肥満の人は様々な病気になりやすい」といった情報が広まると、食べ物・食べ方そのものが健康に「いい」「悪い」と価値づけされるようになり、人々の価値観として内面化されていく。
お茶を飲むときですら「これはゼロカロリーだから"よい"飲み物だ。しかもジンジャーが入っているらしいので、これは身体にいい」とか「このオレンジジュースは、角砂糖いくつ分だから飲むと体に悪い」とか、ある種、アタマで食べ物をとらえてしまうようになる。