吉原は11年に1度、全焼していた...放火した遊女に科された「定番の刑罰」とは?
臨時営業だからこそのお客であふれた
仮宅になると妓楼が先を争ってよい物件を求めるため、いきおい借家の家賃も高騰した。
弘化2年(1845)12月5日、吉原は全焼して、浅草、本所、深川に250日間の仮宅が許された。
『藤岡屋日記』によると、このとき間口三間(約5.5メートル)、奥行七間(約13メートル)の店舗を角町の大黒屋が30日、四十三両の契約で借りた。
また、間口三間半(約6.4メートル)、奥行十一間(約20メートル)の店舗を、角町の二葉屋が30日、四十五両の契約で借りたという。ともに法外な家賃である。
店舗を明け渡した商家の業種はわからないが、主人以下引越しを余儀なくされるとはいえ、仮宅の期間は左団扇で暮らせたであろう。
仮宅は江戸の市中で営業するため、辺鄙(へんぴ)な地にある吉原にくらべて格段に便利である。臨時営業のため格式や伝統にもとらわれず、遊女の揚代(あげだい)も安かった。趣向が変わっていて、おもしろいという客もいた。
こうして仮宅には、それまで吉原や花魁とは縁がなかった男たちまでもがどっと押し寄せてきた。
「仮宅バブル」で生き延びた妓楼も
仮宅になると、妓楼は借家で臨時営業するため、改装にある程度の金はかけたが、吉原の広壮さにくらべると急場しのぎの粗末なものだった。
調度品も間に合わせの品である。家賃が高いとはいえ、壮麗な妓楼の建物の建設費や維持費にくらべるとたいしたことはなかった。
このため、経費はあまりかけずに客は大幅にふえた。値段をさげても、妓楼の利益は大きかった。
それまで経営難におちいっていた妓楼も、仮宅になって持ち直した例が少なくなかったほどである。
幕府は『新吉原町定書』で、経営不振の楼主(ろうしゅ)のなかには火事が発生すると内心で喜び、全焼をひそかに願い、消火に努めるどころか、すぐに仮宅の借り受けに走りまわっている者がいることを指摘し、一部の楼主の不心得をきびしく譴責(けんせき)している。
仮宅になって有卦(うけ)に入った楼主の喜びようは、よほど目に余るものがあったのであろう。